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演員幸福感

暁晨が芸能界に入ってから13年目の、2019年。
所属する事務所のボスでもあり、暁晨が尊敬し心酔してやまない俳優でもある陳坤とそのパートナー、周迅が創設した俳優養成所兼研修所『山下学堂』。

そこで新たに俳優を志す新人たちに向け、"演員の幸せとは"をテーマに、暁晨が書いたものだ。

ぼくが俳優になったのはたまたまだった。曖昧な立場のまま演技の世界に入り、それから10年以上が経った(暁晨はまず19歳でスカウトされモデルとなり、二年くらい活躍した。その後、芸能界に憧れてオーディション番組『加油!好男儿』で全国8位に。そこで注目され、右も左もわからぬまままずは映画で端役を、つぎに舞台を3つ経験した)。

初めての主演古装劇《新西廂記》

ぼくは子供の頃は外向的な性格だったが、成長に伴う様々な問題により、成長するにつれて徐々に内向的になり、ますます恥ずかしがり屋になってしまった。
ぼくの魂はまだ完全に解放されていない、それでいいのか?演技ならば自分の知らない自分に出会えるのではないか?そう考えて演技の道を志した。

主役を務めたミュージカル《再見、我的愛人》

演技ならば、ぼくは内に溜まったエネルギーを解放することができる。
自分が好まぬ現実の自分を脇に置いて、好きという感情、嫌いという感情、愛情、憎しみなどを思い切り表現することができると思った。

ぼくは自分自身から逃避したように見えるかもしれない。時にためらい、時に勇敢にというように、完全に自意識の中だけをさまよっているぼくの魂を、何とかしたかった。
ぼくは訓練を受けた俳優ではないけれど、素晴らしいキャラクターを創造することができるという、それ自体が興味深い。これがぼくの俳優であることの幸せの原点だ。

この10年間、つまずきながらも頑張ってこられたのは、心の中に咲くのを待っている『花』があったからだ。
物事が順調に進んでいるときは、人はより理想主義的になり、たとえ他の人がその仕事を無価値だと思っていても、自分が好きでやりたいことだけを受け入れる傾向がある。しかしその理想が挫折すると、人はより現実的になり、毎日立ち止まらないことを良しとするだろう。

かつては2年間で大量のドラマを撮影し、いわゆる"限界"を経験したことがある。
実際、ぼくは真剣に全力でその役をやり遂げようとしていたから、ある程度の成果は上がっていたかもしれない。
何度も仕事を重ねるうちに、ぼくは一連の演技のこつを編み出し、自分独自の特徴もいくつか生み出してきた。役柄によって、自分自身の感情が解放されたと感じ、喜びと幸福感を感じていた。

しかし、ある時ぼくは何かがおかしいと感じ始めた。
やり切った、と思ったこれらの仕事は、ぼくにあまり利益をもたらしていないように感じたのだ。
ぼくは旅が大好きだが、今までの冒険は、けして自分が夢見、望んだものだとは思えなくなった。
後になって、これは幸福じゃなく、退屈な生活からの逃避だったのだと気づいた。

やがて、仕事のための忙しさが喜びを蝕み、演技で自分を解放することで得られる幸福感も消え去り、撮影は毎日監獄のようになっていった。

そこでぼくは、"変革"について考え始めた。
とにかく、これならば自分の成長に役立つと思える、やり甲斐のある役をいくつか選んだ。
その第一は《寂寞春庭空欲晩(邦題:皇帝の恋》。
ぼくは劇中で怪しい太監を演じた。
彼は復讐のためにすべてを捨てる非常に冷酷な性格の人物。しかし同時に、彼は哀れな男であり、哀れさゆえにその邪悪さが際立つ、そんな役。

つぎがぼくが最も好きになったキャラクター、《海上牧雲記》の牧雲徳。
彼は聡明で、政治的な企みに長け、陰謀をめぐらす冷酷な策士。しかし同時に父親に認めてもらい、愛されることを切望している。
牧雲徳は非常に複雑な役であり、ぼくの演技の成熟度を知ってもらえる転機となった役。

演劇以外の場所であっても、人生と向き合い、日常を通して自分自身を変えようと努めている。
ぼくはオフを利用して、友達と休んだり、パーティーをしたり、お酒を飲んだりし、また、リフレッシュするために演技の講習を受け始めたりすることに努めた。

簡単な料理を作ったり、掃除や片付けをしたり、自分で旅程を立てたり、鈴木忠志さんのトレーニング法を習ったり…今までできなかったことをやってみたり、少しずつだが、自由な時間と向き合えるようにした。

人生の変化はキャリアの変化をももたらした。
《脱身》以来2年以上経つけれど、ぼくが出演したのはテレビシリーズ2本と映画1本だけだ。
以前はとても忙しかったが、今は仕事の質に最も注意を払っている。

しかし、それでも"問題"は起こりうる。
その"問題"は"期待"から生じる。仕事や役割そのものに対する期待ーーーしかし、期待が大きければ大きいほど、重圧も大きくなるもの。
ぼくは自分自身に、演技そのものが好きなのか、それとも演技の結果がもたらす名誉や生活が好きなのか、と問いかけた。
両者の間には説明のつかない繋がりがあるが、後になって、ぼくは気づいた。
名誉は自身をより力づけ、演技に対する情熱を高めることができるが、演技は名誉のためだけのものではない、と。

つまり、俳優の幸せとは、幸福感を下げることから生まれるのだ。
過度な希みや期待は、多くの場合、幸福を逃してしまう原因となりうる。
この法則は俳優に限らず、他の職業や人にも当てはまると思う。
俳優は他の職業に比べ、歓声や賞賛から喜びを得やすいが、同時に自分を見失い、初心を忘れ、喜びを失う渦に陥りやすい傾向もある。
そんな急速に変化する価値観の中で、心の純粋さを保つことは並大抵ではないだろう。

結局のところ、俳優という仕事は、その『純粋さ』を維持するゲームのようなものなのだ。
ぼくはこれまで多くの回り道をしてきたが、この経験はぼくの人生に対する価値観を見出す貴重な旅程だった。
誰もが独自の道を歩んで、既存の定義に従って判断することなどできないと理解するまでに、ぼくは多くの紆余曲折を経た。
『不以物喜、不以己悲』(外界の良し悪しや自己の損得で喜んだり悲しんだりせず、また物にも左右されず、自分の近況がどんなに変化しても決して乱れず、心は常に穏やかであれという意)という成語があるように、実際、自分自身の境界は、自分の思考の境界なんだと分かるまで、これだけの時間を要した。

そこでぼくは、努力し心を落ち着かせながら、自分のパフォーマンスの問題点を見つけることに集中し、その問題を解決することに最大限取り組んだ。
役を演じるには、魂に溶け込む、あるいは侵入することが必要。
俳優や芸術家にとって、このプロセスは特に難しいものではないけれど、この過程には必然的に紆余曲折や苦痛が伴うものだ。
だから、ぼくにとって役を選ぶ上で一番大切な条件は、その役が「好き」かどうかということ。
名声や富ばかりを追い求めずとも、自分が好きなものや理想のためには喜んで犠牲を払えるはずだ。

昨年、映画を撮影した(《無名狂》のこと)。
制作費はそんなに高くはないものだったが、他のことを考えずに演技に集中することができて、とても幸せだった。

役を解釈するということは、役そのものを解釈するということだけではなく、自分自身を解釈することでもある。
個人の人間性は様々存在し独自性があると同時に、普遍的なもの。
様々な制約により、自分の個性は限られた部分しか表現できないものだし、隠れた部分、成長によって失われる部分、妥協する部分、反抗的な部分、理想主義的な部分など、人前では表に出せない部分もたくさんあるだろう。
自分なりに最大限に演じるためには、役柄によって解釈し、表現しなくてはならない。自分の中で、自分の経験で演じるしかない。つまり演技とは、"ただ自分"。『自ら』を演じることなのだ。

役を生きる喜びは、役の魂を楽しむだけでなく、特別なシーンや設定の中で人生の情熱や悲しみに浸れることだ。
役に夢中になり、役を好きになり、恋に落ちるーーー人生に於いては、誰もが愛しくてならない瞬間を持っているものだ。

善悪や強者弱者に関係なく、どんな役でもその人間性や後悔、心情、温情などの光を見せることができる。運命によって伴侶を心から掴み、深い感情を育み、互いに影響を与え合えば、人生は飛躍的に前進するだろう。

良い俳優になるため良い人間になり、皆同じように、共に励まし努めましょう。

現在の暁晨

この寄稿の翌2020年。
《千古玦塵(邦題:千古の愛、天上の詩)》《贅婿》と続けて客演し、悪役を演じ、話題作《慶余年》を手がけたスタッフの信頼を得た暁晨。

立て続けに、《雪中悍刀行》《風起隴西》という超話題作に出演、前者は清廉無垢な道士洪洗象、後者は猜疑心の強い曲者道士と、全く異なるキャラクターを演じ、"遠回り"して得た経験を惜しみなく発揮し、驚きと絶賛を得た。
また、《無名狂》以来の主演映画《奇門遁甲II》にも出演。主役を張れる底力を示した。

また更に翌年より《卿卿日常》《七時吉祥》《珠簾玉幕》《錦囊妙録》と、この上なく憎らしいキャラクターばかりを演じ、そのそれぞれの底無しの極悪ぶりにすっかり悪役のイメージを定着させたかと思えば、人気沸騰の王鶴棣主演の《大奉打更人》でコミカルな大侠を、また今飛ぶ鳥を落とす勢いの成毅主演の《赴山海》にて、善良な兄を演じるなど、自身が固定されたイメージを持たれることを嫌い、様々な役に挑み常に前を向いて、止まることなく成長を続けている。

暁晨は8年、魂を共にした陳坤の元を離れる決心をし、新たな場所へ移った。まさに40歳を迎えたその瞬間にである。

私は仰天した。やっと今波に乗り、話題作に出られるようになり、上がり調子のときに、なぜわざわざ環境を変えるような行動に出るのか。
今や妻帯し息子も生まれ、大黒柱にもなっているのである。

暁晨は語った。
"若い頃に思い描いた40代は、実際なってみるとまだまだ挑戦できることが山とあり、それを出来るだけの体力も方法もあると分かった。
ならば挑戦あるのみ。変化なくして成長はなし。
やってみせる"
と。
それが張暁晨なのだ。
これが、私が痺れてやまない、"演員張暁晨"たる姿、生き様なのである。

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