人生とは - 人生論

 私の同級生に、こんなことを常に言うような人がいた。
──『生きている意味ってなに?』
──『私なんていらない、死んでやる』
──『母親なんていらない』
 私はその度そうかい、そうかいと聞き流すことを心がけていたのだが、いい加減面倒くさくなってくると、私自身も悟りなぞ開いていないのによく諭していた。

 お察しの通り、私はこの人にたいして酷く嫌悪感を抱いていた。
嫌悪感の理由──それは紛れもなく、この人の発言の根幹に『ファッション』があったからだ。
どういうことかと言うと、この人は構って欲しいという理由で自傷的発言していたに過ぎない、ということである。
私はそのようなこと、人が嫌いなのである。
 ちなみにこの人には色々なトラブルを起こされて、結果たまに私が悪者になったりもしたのだが──そんな話をしても意味は無いので、今回は省く。

 さて、この人の発言で唯一「ああ、たしかに」となったのは「人生の意味」についてのことである。
 当時私は人生には意味があり、その意味と運命は連動していると考えていたが、今では全く違う。
そして現在保持している人生論を共有したいとも思ったので、書いてみたいと思う。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

人生そのものに意味は無い

 表題の通り、「人生そのものに意味は無い」というのが私の考えである。
「生きている意味って何なの?」という質問に対しては、私は「そんなものないよ」と回答するということだ。
 詳細に話をする。
まず人間の誕生理由であるが、これはあくまで自身の意思を必要としない、無条件的事象である。言い換えれば、親に生んでもらって『生かされている』にすぎない。
自身の意思を必要としないならば、自身の意識上で発生する意味(=本質的意味)は発生しない。なので、誕生に関しては『生かされている』側が意識するべき「意味」は存在しないと言えるだろう。
 自身の意思を必要とせず発生した事象「誕生」の延長線である『人生』、これも生かされているにすぎないため意味は伴わない。
あくまでも「生かされている」のだから。
なので、人生そのものに意味は無いのだ。
 …それではあまりに救いがなさ過ぎるといえばなさ過ぎる。
 なので一つ付け足しておくと、「人生はお椀である」ということだ。
これについても詳細に話をしよう。

 そのもの自体に意味は無く、自身の意思を必要としない無条件的事象である人生だが、かと言って当事者は自身他ならない。
 つまり、当事者である自身には人生を歩む権利がある。自身の意思を必要としないだけで、自身の意思を介しても問題は無いということである。
 これについてわかりやすいたとえがある。
それが「お椀とご飯」だ。

 人生をお椀とする。
お椀の中に入っているご飯があるとする。
このご飯は自分で歩む人生の「中身」だとしよう。
 朝食を摂るとき、お椀に意味があると思うだろうか?
もちろん、有名な焼き物であるとか漆器であるとか、現実的価値がある場合もあるだろう。
そういう価値的な意味じゃなくて、自身に直接影響する意味のことだ。
 ──目立つような意味は無いのではないだろうか。
 あくまでもお椀は入れ物である。
自身に栄養やエネルギーという形で直接的影響を及ぼすのはご飯であり、内容物だ。
内容物にこそ意味があるといえる。
つまり、これを変換するなら「人生には意味が無く、人生の中身にこそ意味がある」ということになる。
即ち、意味があるのは生活ということだ。
この生活の主導権を握るのは、自分である。そのため、人生に意味が無くとも、人生の中身である生活には意味があり、それを遂行するのは自分である──というのが私の持論だ。


 さて、ここまで偉そうに人生論を語らせていただいた。
あなたはどうだろう?
人生に、どんな意味があると思う?
そもそも人生に、意味があると思う?
考えてみると、何だか面白くなるのでぜひやってみてほしい。

いいなと思ったら応援しよう!