さくさく
ざくざく
ぎゅっ
真っ白な地面を足で踏みしめると、ふわっとした感覚の後に、きゅっと締まったような音と足裏の心許ない感触。
ほんの少しの時間で、足元にじわじわと冷気が沁み込んでくる。
目を閉じてみると、キリッとした冷たい空気で肌がヒリヒリする。
大きく吸ってみると、痛みの後に芯から冷えて凍りつく。
私にとって雪を踏みしめるのは、非日常的な行為だ。
なぜ人は旅をしたくなるのだろう。
日常に新鮮さを取り戻したくなったとき、場所を変えることで心が生き返る。
もしかしたら、その理由のひとつは、感覚がひらかれるからではないか。
感覚をひらきたい欲求は、人間の3代欲求にプラスされてもいいのかもしれない。人が生きる上で、なくてはならないものかもしれない。
メタバースなんて言葉が行き交い始めた昨今、そんなことを思った。
✳︎✳︎✳︎
ずいぶん時間が経ってしまい、今頃になって書くのだが、
昨年の秋に大阪の国立民族学博物館(通称「みんぱく」)で開催された
特別展「ユニバーサル・ミュージアム −さわる!“触“の大博覧会」は、まさに「感覚がひらかれる」体験のできる展示会だったのだ。
「ユニバーサル」という言葉が頭文字につくと、つい「障がいのある人に向けたもの」という意味合いを背負っているように感じてしまうが、そうではない。
通常の展示会では、「接触禁止」「撮影禁止」など、作品と自分との間には境界線があり、受動的である。もちろん、このような場では視覚障害のある方が作品鑑賞をすることは難しい。
しかしながら、この展示会では、障がいの有無や国籍に関係なく、老若男女、全ての人が“さわる“豊かさと奥深さを味わうことができる。触ってみて初めてわかること、触るとより深く理解できるものがあることを知れるのだ。
視覚優位の現代社会では失われがちな感覚を取り戻して、また、作品に触れるという双方向性が拓れたのだった。
作品と鑑賞者のインタラクティブな関係性は、なんだか心が温かくなる。
とても印象的だったのは、入場してすぐに現れた「耳なし芳一」の木像だった。
「耳なし芳一」の話は有名なのでご存知の方も多いと思う。
盲目の琵琶法師の芳一が、全身に経文を書き込まれることで平家の亡霊から身を守るのだが、庇護者の和尚の手抜かりで耳に経文を書くのを忘れたために耳を失ったという怪異談である。
視覚のみならず聴覚まで失った芳一が、どちらの感覚にも頼らずに芸能者として技を磨いたのである。
木像は、芳一の姿をモチーフにしながら「視覚に頼らない美術作品」の実現を目指したものである。
私は目を閉じて、ゆっくりと芳一の像を手で触り鑑賞した。
少しひんやりとしていたが、木製の尖らないタッチに安心感を覚えた。
アタマから両手で左右に下がってくると、耳の部分に到達する。
耳のない部分は、想像よりもゴツゴツザラザラして、「切った」でもなく「ちぎった」あるいは「かじった」という表現が手のひらの感触から伝わってきた。同時に、恐怖や痛みも感じ、震えたのである。
「目に見えるリアリティ」と「目に見えないリアリティ」のギャップに戸惑ってしまった。
見ただけで知ったような気になることは多いと思うが、「知らなかった」を知る機会でもあった。あるいは、「未開の知」があったとでも言うべきか。
聴覚を失った楽器の演奏者は、どうやって音を聴いたのだろうか。
ベートーヴェンも、芳一も、鍵盤や弦を触ることで楽器と対話していたのではないだろうか。
文章でこう書いても、私には想像つかないが。
先代犬が病気で死に向かうリアリティも、
骨が浮き出て痩せた身体の様子と、しがみつく力なく骨張った感触とによって、身に沁みて感じたのであった。
しかしながら、抱いた時のぬくもりや 柔らかい毛がくすぐったく感じた そんな想い出も幸せな感触として残っている。
「触」から受け取るものは、長い期間記憶に残り続けるほど強烈な表現でもある。
コロナ禍になって久しく「触」の感覚を味わう豊かさとは対極の環境になっている。安心・安全があって初めて触ることができるのだ。
この状況は、「触の知の喪失」という点において、間接的に私たちの精神状態にも影響を及ぼしているような気がする。
自由に移動し恐れず触れることができる、感覚がひらかれていく環境が早く整ってほしいと願う。