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ティーダのチンポ騒動、あれは一体何だったのか
「あかん、今日もティーダのチンポ見てたら1日終わってもうた・・・」
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かの動画を見て以来、このような悪夢に苛まれている全国のティーダのチンポ難民が一体何人いるだろうか。
「ティーダのチンポが脳内再生されるせいで仕事(勉強)が手につかない」
「危うく人前で口ずさみそうになった」
「コネクトを以前のような気持ちで聴くことができなくなった」
「夜眠る前にティーダのチンポを聴かないと眠れない体になってしまった」
少し前、このような悲痛な叫びがSNS上で溢れかえっていた。(だが、同時に何故かみんな心からウキウキしているようだった)
ここでもチンポ、あそこでもチンポ。
しかもその正体が、発売から20年以上が経過しているゲーム作品のMAD動画(インターネットにおける前時代の化石のようなコンテンツ)なのだ。
かつてこのような異常事態があっただろうか?
これはインターネット上で起こった特異点だと言える。
だが、断言しよう。
この大ヒットは決して偶然の産物ではなかった。
この特異点は生まれるべくして生まれた。
我々は意識の底で待ち望んでいたのだ、このようなコンテンツを。
あなたも思い当たる節があるのではないだろうか。初めてティーダのチンポを見た時の、異常なほどのしっくり来る感。
懐かしいような、心踊るようなあの感覚・・・
かく言う私もあの魔力に囚われた一人だ。
その魔力の源を突き止めようと、インターネットと自らの深層意識に潜った。
私なりにたどり着いたその結論をここに記そう。
ネット黎明期、共同体意識の形成
まず手始めに、皆さんがネットの世界に触れるようになったのはいつ頃だろうか。
ここ数年の人もいれば、もっと長い間ネットの世界に触れてきた人もいるだろう。
だが、全体的な傾向としては、おそらく多くの人が「スマホを買ってから」という回答になるのではないだろうか。
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では人はいつからスマホを持つようになったのか?
私の体感としては、スマホが世間一般的に所有されるようになったのは2012〜2013年頃だ。
当時私は高校生だったが、クラスでスマホを所有しているのは40人中4〜5人で、大学に入ってからスマホに買い換える生徒が殆どを占めていた。
=丁度ガラケーからスマホへの移行時期だったのだ。
そしてスマホと一緒に、あるコンテンツが爆発的に広がりを見せていた。
皆さんもご存知の通り、SNSの普及である。
SNSがどれだけ我々の価値観、社会に影響を与えたのかはわざわざ私の説明するまでもないことだろう。
ここで留意しておきたいのは、SNSがその影響力について語られる時、それは上に述べたような我々の価値観や社会などスケールが大きい視点で語られることが多い、ということだ。
そのスケールの大きな話の下には有象無象の小宇宙があったのであり、SNSの生みの親であるネット世界そのものも、そうした小宇宙の一つだった。
そう、SNSはそれまでのネット社会に突如訪れた超弩級の台風のようなものであり、それまで静かに慎ましく生きていたネット世界の住民たちには、抵抗する術などあろうはずもなかったのである。
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ここまで読んだあなたは、ネットを「有象無象の小宇宙の一つ」と言ったり、ネット民のことを「静かに慎ましく生きていた」などと表現したことに違和感を覚える人もいるかもしれない。
しかし、SNSやスマホが普及する前の時代、ネットは基本的にはアングラのコンテンツだった。(一般人にとってはただの検索ツールに過ぎなかった)
有名な2ちゃんねるのコピペにあるように、少なくともネットに普段から出入りしている人間にとっては、そのような(アングラの)認識が少なからずあった。
表現を選ばなければ、2012年より前の時代、ネットに日常的に出入りしているのはニートかオタク、あとは一部の出会い厨だけだったのだ。
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彼らはリアルの生活からの逃亡を求めていた。ネットの世界には自分と同じような状況の名前も知らぬ人間たちがいくらでもいた。
彼らには同族意識が自然に芽生えた。共同体意識の発生である。
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SNSの出現、ネット世界へのインパクト
その共同体意識はSNSの出現によってどうなったか。
SNSと言っても、mixiのように既に0年代から流行し始めているサービスもあったが、それらはまだ特定のコミュニティを超えての交流が活発なわけではなかった。
基本的にリアルでの知人か、共通の趣味による繋がりを超えての交流は少なかったのである。
流れを大きく変えたのはTwitterのような不特定多数のユーザーとの繋がりを生み出すサービスだった。
皆さんもSNSと聞いて思い浮かべるのはTwitterやInstagramのような、不特定多数のユーザーをフォローできるようなプラットフォームだろう。
スマホの普及と歩調を合わせて、これらのサービスにいきなり大量の人が流れ込んだ。平日通勤ラッシュ時の品川駅の改札口のように。
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それは既存のネット世界を文字通り薙ぎ払うかのように一新させた。
元々はニートかオタクしか住んでいなかった2ちゃんねるにも、ニコニコ動画やYoutubeのような動画投稿サイトにも、スマホを手に入れたサラリーマン、学生、主婦から老人までが出入りするようになったのだ。
その結果、SNSは不特定多数のユーザとのつながりを生み出す代わりに、それまでのネット内の共同体意識を解体することになった。
オトワッカの出現は何を意味していたのか
話を戻して、今回のオトワッカの動画、あのようにゲームやアニメなどの登場人物のセリフを切り抜いてコラージュしてできたものをMAD動画という。
まだネットが一部のアングラコンテンツだった時代、あのようなMAD動画がニコニコ動画には大量にアップロードされていた。
当時のMAD動画
ニコニコ動画ではユーザのコメントが画面上にスライドされる仕様から、もともと身内ネタの要素が強いMAD動画へのコメントは、一層視聴者の結束を高めるものだった。
(ニコニコ動画ではコメントでAA(アスキーアート)や巨大な弾幕を作る「職人」というユーザが存在していた。動画だけではなく、そういったコメントを含めて楽しむのがニコニコ動画の特殊性だったのだ)
だが、MAD動画も時代の流れとともに、次第に姿を消していった。
ニコニコ動画に代わってYoutubeが主要な動画視聴サービスになったことも大きいだろう。
かつてニコニコ動画を視聴していた層も、SNSやYoutubeに拠点が移っていったのだ。私自身もニコニコ動画よりもYoutubeを見る機会のほうが圧倒的に増えていった。
それが大体2012〜2013年あたりの話だ。
MAD動画は約10年の間、記憶の底で深い眠りについていたのだ。
誰かがまた目を覚ましてくれる時を信じて・・・
「・・・・・・・だろ」
ん?今何か聞こえたような・・・
「・・・・・・・・・・・・・すぎだろ!」
聞こえる!何か聞こえる!!!
「・・・・・・・・気持ち良すぎだろ!!!!!」
気持ち良すぎ!?何が!??
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「ティーダのチンポ気持ち良すぎだろ!!!!!!!」
ティーダのチンポが起こしたものはチンポでもなくなんでもなく、
郷愁とかつての共同体意識だった。
まとめ
かつてのネット世界の住民たちはティーダのチンポに文字通り打ちのめされてしまったのだ。その圧倒的な郷愁と原曲コネクトの素晴らしいメロディ、単純過ぎるあまりに謎の中毒性があるフレーズの繰り返しに。
再生するたびに、自分がこの巨大な波に乗っかっているのだと自覚できる高揚感。(大勢のワッカが合唱している演出も確実にこの高揚感を助長している。なんだろう、あの「みんなで一緒に!」感は・・・)
これほどの条件が揃っているコンテンツが、バズらないはずがなかった。
ティーダのチンポは私達に失われた夢を見せてくれたのだ。
これが私が考える今回のティーダのチンポ騒動の顛末である。
知ったところで何の特もない考察にここまで目を通してくれた読者には感謝しよう。
そして共に心の中で静かに唱えようではないか。
ティーダのチンポ気持ち良すぎだろ、と。