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わたしがライターになれない理由。
noteをコンスタントに続けて半年が経った。書くことって楽しいなぁと思いながら日々文章を綴っている。
書く事が習慣化してきて思うこと、
それは、わたしはライターにはなれない…ということ。
それと同時に、何であれ書いてお金を稼いでる人をひたすら尊敬する。
正確にいうと、「上手な文章を書ける方法」などの本を読めば、わたしもかろうじて1つくらいは記事を完成することはできると思う。
だけど、わたしの場合は仕事で誰かに読まれることを意識した文章を書くと、今まで書いたようなエッセイが書けなくなる気がするのだ。
きっと上手で読まれる文章と、誰かの心を打つ文章って全くの別物。
心が打たれる文章って、下手で文法間違っていても、嘘偽りなく心の声を表現した
その文字の羅列には血が通っていて「生」を感じる。
そして、それは誰かのために書いたわけではなくて何よりも自分の為。それはお金にはならないけれど、そんな文章が意外にも人に読まれる。
AIが完璧な文章を提案する中、きっと人の記憶に残り続けるのはそんな文章かと思う。
書いてお金を稼いでいるプロの人は、相手のニーズを満たしては読まれる文章と、自己満足の文章をいい塩梅で使い分けできるのだろうけれども、私はクライアントから指示をされた内容で文章を書き続けると、かつて書いていたエッセイの書き方をきっと忘れてしまう。
今はぽんぽんと文字が浮かんできて、息を吐くように文字を綴ることができる。
だけど、それはきっと自分のために書いているから。
自分を救ったり、喜ばせる為に書いているnoteは、3歳児の落書き帳のようなもの
けれど、他者から提示されたテーマのもと誰かの為に、読みやすいを意識すると、わたしは手が止まってしまう。なにを書けばいいのだろう…?
書いては消して、書いては消してを繰り返して、思考が止まる。しまいには、考えることを放棄してしまう。
そして、再び自分の書きたいことに意識を切り替えると、どばーっと洪水のように思考が溢れだしてはタイピングするのに必死になる。
そんなわたしはライターにはなれないだろう。相手のニーズに答えられないから。
だからこそ、プロ、アマチュア問わず書いて1円でもお金をいただいている人を心から尊敬しているのだ。