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褒められるのが恥ずかしい私

今日も朝からYouTubeで人生の勉強。

少し前に「山崎拓巳先生」と「崔燎平先生」のコラボ動画を見ました。

山崎拓巳先生は本当にすごいですよね。
常に学んでいるし、前に進むことへの恐怖も感じられません。
私の苦手とすることを、なんなくやっている姿に憧れます。

対お母さんのワーク

山崎拓巳先生が受けてきた『対お母さん』のワークのお話でした。

この世との関わり方の基本は『対お母さん』にあるそうです。
生まれた瞬間から関わっているのだから、言われてみれば当たり前だけど、だからこそ気付かないのかもしれませんね。

ワークでは爆音の中、お母さんを罵倒するそうです。
ここで出てくる言葉の中に『気付き』があるそうなんです。

人前でいいことができない私

私は人にお礼を言われるのが苦手です。
人の役に立ちたいけど、お礼を言われるのは恥ずかしいです。

(あれをやっておいたら、きっと助かるだろうな)
と思っても、誰かに見られていると、恥ずかしくてできません。

なので、誰もいなくなったタイミングがあったら行動します。
名付けて<いつの間にか誰かがやってくれたんだ>作戦です。
誰もいなくなる瞬間がなかったら残念、やりません。

私にはそれが当たり前なので、不思議に思うこともありませんでした。

人前の方がいいことをする人

社会人になって、一緒に働く人の中に、私と正反対の人がいました。

事務所に私と2人きりのときは何もしないことが多いのですが、他の人の目があるところでは、それはもうよく動くんです。

10年以上一緒にいて分かったことは、『ありがとう』と言われたい人、目立ちたい人、ということです。

もちろん、私には理解できませんでした。
私は『ありがとう』と言われることが苦手だから、なぜか恥ずかしいと思ってしまうから。

初めて感じた疑問

『ありがとう』って言われたり、いいことを人前でしても恥ずかしくないのかな?

私と正反対の人を見ていて、いつも思っていました。
同時に、私にはできないことを当たり前のようにやるので、イラつきも感じました。

人に迷惑をかけているわけではない、むしろ人の役に立つことをしているだけ、なのに私はなぜイラつくのか…私って嫌なやつかも…自己嫌悪です。

私の『対お母さん』

山崎拓巳先生の『対お母さん』のワークの話に出会い、やってみようと思いました。

爆音の環境は作れないので、1人でお風呂に入っているときに決行です。
1人とは言え、家には家族がいるので控えめに。

…お母さんを罵倒かぁ。
とっても罪悪感があるんですよね。

お母さんとは、ほぼ毎日会っているのですが、そりゃもうイラつくことはたくさんあります。
でも、いざ口に出すと思うと罪悪感が襲ってきます。

罪悪感を振り払い、「えいやっ」と口に出してみると、ちょっとスッキリ。
喉につかえていた大きなものが、ボロっと取れた感覚。

ちょっとスッキリしてしまう自分に、また罪悪感を覚え、ずっと罪悪感様がひょっこり顔を出しているんですよね。
ほ~、親を罵倒するとこんな感じなのか、と変な感覚がありました。

たーくさん罵倒が出てくると思いきや、意外にも出てきませんでした。
口では罵倒しながらも、心は感謝の方が大きくて、そんな矛盾がまた変な感じ。

しかしです。
3個目くらいの罵倒の言葉が、私に衝撃を与えました。

「からかわないでよ」

からかわないで

「からかわないで、素直に褒めてよ」

子どもの声ではっきりと聞こえました。
ん?なんのこと?
自分でも初めは分かりませんでした。

でもすぐに思い当たりました。
あの言葉だ……

『珍しい!えだもこういうことするんだぁ。今日は雪が降るわね』

私がいいことをしたときに、お母さんに言われていた言葉です。

例えば、帰りが遅いお母さんに代わって洗濯物を畳んでおいたり、お母さんが疲れているみたいだからお風呂掃除をしてみたり、そんなときに言われました。
毎回、雪だったり槍だったり降らされましたね。

あれは、まだ小学生の頃だったと思います。
本当は褒めてほしかったんです、『ありがとう』と言ってほしかったんですよね。

しかし、お母さんから言われるのは、からかっているような言葉で、とても恥ずかしかったのを鮮明に覚えています。

いつもこういう言葉を言われるので、私はお手伝いをしなくなりました。

それから、お母さんによく言われるようになったのは『えだは何もしないんだから』です。

(何かしたって嫌味を言われるだけだし)
私の中で、お手伝いをすると嫌味を言われるし、恥ずかしい思いをするだけと刷り込まれてしまったんですね。

繋がった瞬間

そういうことかー…
お風呂で1人、しみじみ…

心の奥がキューっと締め付けられる感じがありました。

人前でいいことをするのが恥ずかしいと感じるのは、子どもの頃にお母さんから言われていた言葉によるものだったのかもしれません。

はっきりと覚えてないのですが、お母さんに褒められそうなことをするときは、隠れてしていた気がします。

バレそうなことはしませんでした。
本来は、バレるとかバレないとか、関係ないことなんですけどね。

子どもの頃の経験は刻まれているのか

小学校の頃なんて、もう20年以上も前なのに(また年齢バレる)、潜在意識は覚えているんでしょうね。

何度も同じ経験をするうちに、体と心に刷り込まれ、日常になり、違和感もなくなっていく、人間とは不思議ですね。

同じ誕生日で同じ運勢なのに、全然違う人生を歩む理由が少し分かった気がします。
人間は環境に左右されやすいというのも、本当にそうなんですね。

私にも2人の愛する子どもたちがいます。
この2人にとって、この世との関わりの基本は『私』ということです。

マジかー…
責任重大じゃないかー…

私と愛しい子どもたち

思い返してみると、知ってか知らずか、子どもたちがお手伝いしてくれたときなどは、
(からかうような言い方はしないで、めっちゃ褒めよう)
と頭の片隅で思っている自分がいたんですよね。

はたまた、「私のお母さんと私の子どもたち」のやり取りを見ていると、「私のお母さんと私」を思い出すことがあるんですね。

(あ、私もコレ言われたことがある。すごく悲しくなるんだよな)
そう感じたときは、我が子を守ります。

「そんな言い方しなくてもいいでしょ」と、あの頃の私が言えなかったことを、こうして今になって言っているのでしょう。

お母さんは、今も昔も変わっていないということなのかな。
20年以上前も、今も言っていることが同じですから。

でも1つ違うのは、私が言い返せることです。
私に指摘されたお母さんは、私の子どもに謝ってくれます。
その姿を見て、私の幼心は癒えているのでしょうか。
それは実感などがないので、分かりません。

結局、正解はない

小学生の私が、お母さんに言い返していたら、どうなっていたのでしょうか。
考えても分かりません。

そもそも言い返すなんて選択肢はなかったです。
怒るととっても怖いお母さんだったので、とにかく怒らせないように、お母さんの様子を見ながら過ごしていました。
(普段はめっちゃ優しいですよ)

私は第一子の長女なので、私の第一子である長女に、めちゃくちゃ感情移入してしまいます。

私のように、お母さんが怖くて何も言えない子になってほしくないという思いが、出産したときからありました。

なので、長女が言い返してきたときは、ピシャっと撥ねつけず、1度受け止めるようにしています。
言いたいことを我慢しなくてもいいように、言っても無駄だと思ってしまわないように、配慮してきたつもりです。

でもこれって、自分が経験したから配慮できることなんですよね。
経験してなかったら配慮もクソもありません。(語彙(汗))

つまり、私のお母さんは経験してなかったわけで、分からなかっただけなんですよね。
まったくもって悪気はない、むしろ愛しかないわけです。

そう考えると、私も自分の子を悲しまるような言葉を言っているのかもしれません。
いや、きっと言っているでしょう。

思わず感情的になってしまうこともありますから。
大人げないことも言ってしまいます。
寝顔に向かって謝るなんてことは、数えきれないくらいあります。

これからは寝顔ではなく、きちんと面と向かって謝ろうと思います。
自分の非を認め、目を見て謝って、抱きしめます。

その前にもっと言葉に責任を持つべきですね。

今この瞬間、出てきた言葉が、子どもの人生を左右するかもしれない!

もっと慎重に言葉を発することを心がけていきます。


そして…

私の人前でいいことができない癖も直したいです。
「慣れ」なのでしょうか。
勇気を出して一歩を踏み出すことが大事ですね。









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