「スポーツ倫理学」とスプラトゥーンの倫理【スプラトゥーン3】
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はじめに
スポーツ倫理学とはなにか?
スポーツにおいて「スポーツ倫理学」という分野がある。
これはスポーツマンシップに代表されるような公平な競争や正しい戦い方などを倫理的に考えるものだと思ってもらいたい。
以下の文章はすべて『よくわかるスポーツ倫理学』に拠っていることを最初にお断りしておく。
つまり、試合内でみられる様々な不公平や非道な行いなどについてそれがどういう規準で考えると「オカシイ」といえるのか。
それを考える学問がスポーツ倫理学ということだ。
これは実際に試合に参加している人物ならず、それをみている観客にとっても価値がある。
サッカーは11人で行うものだが、もし相手のチームだけ15人で闘うことが許されていた場合、11人のチームは明らかに不利だろう。
しかし、なぜこういったことは許されないのだろうか?
と考えてみたことがあるだろうか。
我々は漠然と「なんかダメだとおもう」という水準で留まってはいないだろうか。
無論、この漠然で留まることがあらゆる人間にとって責められることはない。
しかし、それに関して語るとなれば、厳格な分析や思考の量が求められる。
要するにどの水準で物事を語りたいのかというその人本人の態度の問題である。
スプラトゥーンはどう語られうるか?—FPS(TPS)好きな人たちができない《言語化》—
昨今、e-sportsなるものが喧伝されているのはゲームに従事している人間でなくともご存じだろう。
私ズンダも「スプラトゥーン」というゲームをプレイしているが、このゲームについてアレコレ考えることはおおい。
それは私に限らず、Twitterでは多くおられるようだ。
しかし、スプラトゥーンはTPS(FPSの一人称視点と異なり、三人称視点の自分のキャラがうつったシューティングゲーム)であること、
そして若年層が活躍するゲームもしくはプレイヤーが多いゲームであるがために議論が起こっても、各々の感想に基づいた発言で終わりがちである。
TPSであることがなぜ関係あるかというと
結局、スプラ界隈では何度も同じようなことで炎上したり、議論をしているが、誰も包括的な話やまとめをしないために
「個別の意見がバラバラのまま宙に浮かび、検討結果も纏められることもなくネット空間に漂い消えていく」
だけなのである。
私はTwitterをみていると
という感想を抱くようになった。
ネタとして遊ぶだけで満足している反応に価値はない
こういう炎上を楽しむ人が書きがちな、痴愚のような文を象徴するものとして一例をあげる。
私が書いたこと(弱い武器は悪か?というもの)への返信の一つに
ー注意すべきは私はこれを反〈論〉だと思ってない。論になっておらず、感想文だからであるー
「俺、バカだからわかんねえけどよ」
というものがあった。
この文はネタとしては許されるが、
「自分はバカなのでわかりません」と告白しているだけであり、実質的な意味は何もない。
バカなら私のいっていることがわからない、当然である。
私はバカです!といわれても、
「ああ、そうでしょうね」としかいえないのである。
こういう告白をしていて平気でいられる神経を疑うが、それを指摘しても「ネタなのに」と本人はいうだけだろう。
そして、ネタという状態に自分を置くことによって、頓馬を隠すことができると思っているようだが、隠せてない。
ゴミ箱に布を被せても悪臭は芬々と漂うのと同じである。
こういうネタにしておけば何をいっても許されると勘違いしているその頭こそが、弱い武器を正当化するための原因なのではないかと勘ぐってしまう。
人がいっていることを理解するためには、以前も書いたが
「小学校一年生に高校数学や大学数学をやらせても何もわからないに決まっているので、普通は階梯を順々に登って勉強するものであり、飛び越すことは不可能」
である。
これが正攻法であるが、冷笑系や逆張りが好きな人間は
「うまいやり方があるから、どうにかすれば大学レベルから初めても大丈夫だろう」
と思って基礎をすっ飛ばし、何も学べず路頭に迷うのである。
だが、こういった幼い反応は子供同士やある集団においては楽しいものかもしれない。
同じ宗教を信仰している人間が互いに
「あれいいよね、これいいよね」
と仲睦まじげに談笑していることは責められることではない。
だが、そこから何らかの普遍的な見解や妥当な真理が見出されることはない。
単に自己が信奉している通俗道徳やノリの中で自慰行為に耽っているだけだからである。
↓ノリについては以下の文をどうぞ。
それもそこで留まっているだけならば私は何も思わない。
何処かのインフルエンサーがいっていた
「批評家の言葉で語らず、自分の言葉で語れよ」
とは思わない。それには才能が要るからである。
全ての人に批評を求めるのは理想が高すぎる。
しかし誰かと対話をしたり議論をしたり、挙げ句の果てには口撃してくるのであれば話は別だ。
こちらも応答せざるをえない。
そして、そういった熟議のようなことがしたいのであれば、
議論の勉強をしなければならない。
スポーツ倫理学は倫理の乱れから生じた
前述した「スポーツ倫理学」が生まれたのも、現在のスプラ界隈の
諸説紛紛とした状況とにていた。
1960年代の冷戦構造下におけるアメリカとロシアとの抗争による代理戦争または国威発揚としてのスポーツは勝利至上主義へ向かわせドーピングによる選手強化が頻発する。
同時期にアメリカでは黒人差別や女性差別などが問題になった。
荒れ果てた国内外の情勢は人々に道徳や倫理などを改めて考えさせるきっかけをつくった。
結果として「何が正しいのか?」を考えるためにスポーツ倫理学が誕生する。
倫理学は倫理をメタ的に考える「メタ倫理学」から人間の具体的な行為の是非を考える「規範倫理学」へと移っていく。
スプラで議論とは?
権威主義は必ずしも悪いわけではない理由
このような経緯をみてみると、
スプラ界隈の胡乱な意見を是正するためには以下の二点が須要だと思われる。(これに関しては以前の記事でも書いたので下掲のズンダブログを参照してもらいたい。)
①に関しては、議論はあることについて何らかの前提となる規準や根拠を以て主張がおこなわれることを指す。
それがない場合、議論は感情論で終わり、成立しない。
また本人の主張がくるくる変わるようだと、何について話していても暖簾に腕押しであり、成立しない。
②は「権威主義では?」といわれるだろうが、そもそも権威をもつまでの過程を考える必要はあるが、権威のある人間でなければ議論の結実は小さく終わる。
誰かがそれを知り、誰かがそれに興味をもち、誰かがそれを支持するような状態にならなければ「一人の意見」で終わってしまう。
そうなると、議論の成果が他の誰かの目に止まることもないので、吟味されることが少なくなり、そのまま放置され、議論の生産性と甲斐が減少してしまうのである。
よって無名の大衆や民衆には②を行うことはできない。
地位、名誉、権威のある誰かが中心にいなければならない。それがあって初めて議論は燃え上がり、成立する。
前回の記事を思い出そう。
私はにしイカ氏について書いたわけだが、
プレイヤーが誰かのプレイをTwitter上で晒し上げると炎上することが多い。
その機序は以下のようになる。
ここで欠かせないのは知名度や実力のある人々が参加することだ。
知名度だけではない。
彼等はXPが高いので実力があり、プレイに関しても「正しいこと」をいうだろうと思われている。この「正しいこと」が本当に当たっているのかは実はわからない。
※実は本当に正しくなくとも、私ズンダにとってはそれでかまわない。
上位勢であっても見解の相違が甚だしいのであれば、スプラの実力は《言語化》、つまり「説明できるものではない」ということが判明するからである。
だが、人は実力者を無視できない。
その辺りの無名の人間がいっている意見よりも
最高XP5000の「メロン君がいっていること」に注目する。
これがその人の主張への吟味を盛んなものにする。
ウデマエやXPが低い人は何も語るべきではないのか?
と思う人もいるだろう。
そうではない。
界隈全体に行き渡るような力がないということなのだ。
仮にあなたがあるプレイについて「正しいこと」をいえたとする。
しかし、あなたは無名なためにその「正しいこと」を拾ってくれる人はいない。すると、その知見は誰かに共有されることもないので「一人の意見」として置いておかれたままになる。
これでは議論も何も起こらないので価値としては低くなってしまう。
名もなき個々人が議論すること、何かを疑問におもったりそれを発したりすることは何も悪くないし、そこで話に花が咲くことに問題があるようにはおもってはいない。けれども、価値としては低いのである。
ただし、「正しいこと」の確度を考えると上位勢のいうことのほうが
当たっているだろう。
普通に考えれば、「何もわかってない人間が何かをいう」ほうが余程に恐ろしい。
プラトンの「リュシス」に
「あなたは誰かが倒れたときに医者ではなく哲学者をよぶのですか?」というやり取りがあるが、普通は医者を呼ぶだろう。
病んでは医に従うわけである。
この問いは当時の哲学者によくいわれていたものだろうと想像できるが、「それについてわかっている人間を尊重する」というのは
至って当たり前ではなかろうか。
※一方で、この正しいやりかたというのが通用しない人間もいるだろう。
そのときに例外的なものがあることは否定しない。
さてここまで来ると、何らかの規準をもってくることは理解され得るであろう。
議論を「マシ」なものにしたほうが得られることは多い。
残念ながら私は②を持っていないが、①を人々に紹介することはできる。
断るまでもないが浅学菲才のゆえ、もっと適切で大量の①を紹介できる人々はいるだろう。
そしてそういう人は多く出てくるだろう。
だが、そのほうが生産的な議論のためにはいい。
このやり方が正しいかどうかも議論がある。
それならそれでよい。
あくまで今の私ズンダが考える仮定法的な真理(シェリル・ミサック)である。
※なお、この資格に関しては哲学者ロバート・ブランダムがいう「デフォルトと挑戦の構造」をみることも可能だろうが、それは別の記事で書いてみたいが、今は必要ない。
弱い武器をもってくることは悪か?
スポーツ倫理学における文脈
私が現下、検討しているのは
である。
今回は前者について考えていきたい。
というのは『よくわかる スポーツ倫理学』という本を読んだことで自身の考えに一定の発想を得られたこと、また、この本について必要なところをまとめておきたいと思ったからである。
もとよりこれに関する反応があったからというのが大きい。
このように自身の主張に対して何らかの反応や反論があった場合、当人はそれへの応答として何かを考え、何かを述べる要因になる。そして、それが新たな勉強の起爆剤として活きる。
このため、私ズンダはTwitterやnoteなどで主張することを好んでいるし、それが「スプラで議論せよ」という理由の一つなのだろう。
議論の結果が人々の共通の見解をつくり、また個々人の学習意欲を高めるに資するのではないかと思っているのだ。
e-sportsとsportsの違い
最初に断っておくと、この文ではe-sportsとスポーツとの差異について考慮せずに、スポーツ倫理学の思想を用いる。
私はこの二つの差について特に定見をもってはない。
だが、試合についての人間がもつ志向性は変わらないと考えられるので、スポーツ倫理学の知見をお借りして推考していく。
※The Ethics of Computer Gamesのようなビデオゲームに直結したゲーム倫理もあるが、不勉強なため未だに読めてない。この本にあるという「ダークプレイ」は「弱い武器」を好む人たちの説明にはうってつけかもしれない。
ダークプレイに関しては「日本遊び研究会 遊」氏のnoteに詳しい。
もう一つ『「情動」論への招待: 感情と情動のフロンティア』の
「第7章 ビデオゲームにおける情動/感情――インターフェースと快・不快[向江駿佑]」でも触れられていた記憶がある。
※またデジタルゲーム研究の知見なども特にはとりいれていない。
スプラに関することでいえばイカケンの「好ましくない体験」という言葉の出典がどこから来たのかについて考えられるようになったことである。デンマークの研究者、イェスパー・ユール『ハーフリアル』にゲームデザイナーのハーヴィー・スミス(「Dishonored2」)の「創発的ゲームプレイ」に関する意見が紹介されている。スミスは創発的プレイを擁護する側だが、
そこでは「望ましい創発」と「望ましくない創発」が分けられており、
これなどはスプラにおけるステージを壊すような移動法で考えればわかるだろう。システムデザインの域を超え出たものは「望ましくない創発」のゆえ否定される。そういえば、イカケンの「好ましくない」という用語が話題になったことがあるが、これはもしかするとスミスのいう「望ましくない創発」が元ネタなのかもしれない。
私の発言の意図はこうだった
さて、「弱い武器を持ってくる人間は悪と考えられる」というツィートを私ズンダは以前にした。
これに関して返信RTや宛先不明でありながらも私へ向けたツィートなどを確認している。
Twitterの弱点はツリーにしないで時系列的に書いたツィートを人々が読んでくれないというところにある。
私のツィートを並べると以下のようになる。
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