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上手におしゃべりできない

現代アートがお好きなんですか?

半年で辞めた会社の同僚と夕方に会い、お茶をした際に聞かれた。昼はタカイシイギャラリー京都に行っていたよ、と言ったところ飛んできた質問だ。はい、とは答えられなかった。
え、あー、うーん、目が楽しい物は好きですが…あ、でも…などモゴモゴとしゃべり、無料だし大学時の癖で言ったようなもんです。と自分と向き合うことを放棄して雑に締め括ってしまった。
ああ、美大でしたっけ!と元同僚は答えて話題が変わった。

上手におしゃべりできてない。
まず、現代アートが好きと断言出来なかったことについて。
思考の営みや新しい概念に触れることは好きだが、年々物質的な物を消耗することへの罪悪感と焦燥感を感じるようになってきてしまい邪念が入り鑑賞が上手くいかない作品もある。また、好きな作品もあるが、嫌いな作品もある。コンセプチュアルアートは触れる頻度が下がってから理解に努力が必要なものが多くなり(努力しても理解できないもの、努力することすら諦めるものもある)日常との断絶に苦しさを覚える。理解できる人しか理解してくれなくていい、という姿勢のコミニュケーションは果たしてコミニュケーションなんだろうか。
作品をみて、私はこれを続けられない。と作家にはなれない自分を確認する。きちんと自分を説得して納得させる。もしかして私も作家になれたのではなれるのでは?という浅はかなコンプレックスを見つめて諦めさせる。その為に鑑賞している節もある。
作品を鑑賞して感動したり目が喜んだりも勿論あるが、単純に、現代アートが好きです!というには私は拗らせすぎている。

次に、話題がサッと次に行ったことについて。
質問の意図は会話を続けるためであって、好きなんですか?は別になにかを審判する為に投げられた問いではないと言うことだ。
全然意図が汲み取れていない。すこぶるコミュ障である。

その後もたくさんおしゃべりしたけれど、おしゃべりと言っていいのか疑問だ。
一方的に自分の思考を垂れ流して、相手のリアクションを元に思考を整理しているだけな気すらしている。性格診断系の中には大抵そういう気質があると書かれている。気がするというか、そうな可能性が高い。もはやそれは他人に聞こえる音量の独り言だ。

全然上手におしゃべりできない。
興味のある人とのおしゃべりは大好きだが、果たして私のおしゃべりはこの世のおしゃべりの定義に当てはまっているのだろうか、と不安を覚えている。


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