『走れメロス』を読んで
出会いは中学二年生
中学二年生の時分、国語の教科書を読むのが好きだった。単元の進み具合に関わらず、気になった小説・評論文をぱらぱらと読み進めていた。そんなとき『走れメロス』に出会った。
およそ20年前の僕は爽快な物語だと感じていたはずだ。国語教師も「友だちの大切さ」やら、「一度決めたらやり抜くこと」やら、「悪に立ち向かうこと」やら、そんなことを「筆者の伝えたかったこと」として説明した。まるで太宰に会ってインタビューしてきたみたいに自信満々で。
中学生のころ、太宰を読んでいるってなんか格好いい感じがした。一世代前だと尾崎豊を聴くのに近いだろうか。太宰の代表作を何作か読んで、意味の分からない英語の歌を口ずさんだ。何にも痛くないのにちょっと腰をさすったりして、好きな子の方をちらちら見ていた。早く寝たのにいつも眠くて、数学の簡単な一次方程式にはクラスの誰も手を挙げなかった。世の中を完全にわかっていた。
学ランの中に真っ赤なシャツを着て、時々授業に来るあの“不良”のことを「うっぜえなあ」と思いながら、なんだかうらやましいなとも思った。学校で禁止されている買い食いをしながらこそこそ友人と笑いあって、親と買い物に来ている同級生を冷やかしていた。全員が僕のことを見ていた。
あれ、こんな話だったっけ。
そんな学生時代をほぼ忘れながら、今はスーツを着せられネクタイを絞められている僕は、久しぶりに『走れメロス』を読んで驚愕した。
全然心躍らなかった。全然爽快じゃなかった。なんて予定調和なんだろう。なんて自業自得なんだろう。
得も言われぬ既視感
悪行を働く王に誰かが立ち向かわねばならぬ、それはほかの誰にもできない、それであれば自分がやり抜かねばならない、自分にはそれができる、見ていろ暴君、私のこのまっすぐな友を思う気持ちで、必ずやお前の心をも変えてみせる!
メロスはなぜこんな気持ちになったのか、なぜ自分にこんなことができると思ったのか。あなたもきっと似たような時期を過ごしたことがあるだろう。そう、あのむずがゆくて気持ちいい、二度とできない美しい体験。
何のことはない、メロスは思春期だから、である。
青春は年を取らない
冒頭メロスは激怒している。自らの生活に直接害を加えるわけではないディオニス王に対して、親の仇くらい激怒している。
そういう時期に覚えがないだろうか。鬱屈として身の回りの全てに腹が立って、なんとなくイライラして、つい壁を殴ったり、親に当たったり、そんな記憶が呼び覚まされてきやしないか。
メロスは丸腰で城へ乗り込み、警備に捕らえられてもなお王に暴言を吐き続ける。
部活の仲間のためだと、後先考えずに顧問をののしり、一週間の部活動停止になってからようやく頭が冷えてくる、そんな思い出とリンクしないだろうか。
太宰は、自らが生涯を通じて経験した、あの耐え難く淡い時期を懐古しながら『走れメロス』を描いたのである。ときおり鬱陶しく、ふわふわとした感覚に襲われながらも筆を進めた。だからこの作品は、中学二年生の教科書に掲載されている。
読む側の年代によっていろいろな表情を見せるこの作品は、まさに傑作であり、後世に残すべき作品である。私が心躍らなかったのは小説がつまらなかったわけではない、青春時代の自分を、肩の上からニヤニヤ眺めているような居心地の悪さを感じたからである。
太宰が描きたかった成長
さて、メロスはギリシャの古典『人質』をオマージュして『走れメロス』を作り上げた。しかしながら最後の最後、メロスが友人のセリヌンティウスから裸であることを指摘され「勇者は、ひどく赤面した」と締めるこのシーン、これは太宰の完全オリジナルである。
メロスは一睡もせずに村へ帰った際、村人からの心配の声に「なんでも無い。市に用事を残してきた」とうそぶいた。結婚式を終えた妹に「おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りをもっていろ」と伝え、花婿の肩を叩きながら「メロスの弟になったことを誇ってくれ」と笑いかける。
民衆の前で王の心を解かし、すべてがうまくいったとほっとしたその時、村で自分が残してきた思春期特有の、見るに耐えないカッコつけが突如恥ずかしくなったのである。メロスは思春期を自らの力で乗り越え、大人の仲間入りを果たしたのだ。
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