葬式
明るい葬式がしたい。とびっきり愉快なやつを。
別に死ぬつもりも予定もないのだが、わりとよく死やその周辺の事項について考える。いつか誰にでもやってくるもの。生きている限り受け入れざるを得ないもの。
昔は死ぬのが怖かった。自分が死ぬことも両親が死ぬことも怖かったし、恋人が死ぬことも怖かった。他人が死ぬことについては今でもやはり怖くはあるのだけど、自分の死に対する底知れぬ恐怖感はずいぶんと薄れたように思う。
それは周りの人の死をいくつか経験したからかもしれないし、26年の人生の中で死生観がある程度固まってきたからかもしれない。あるいは単純に生に対する執着が薄れているという可能性もあるが。
死ぬまでのプロセスは怖いが(痛いのは嫌、苦しいのも嫌、恥ずかしいのも嫌 などなど)、いつか不条理に平等に死んでいくこと自体はある程度受け入れられているような気がする。
そこで次に考えるのは葬式のことだ。
先日祖父の13回忌があった。コロナ禍以前は親戚一同を集めてやっていたが、以降は本当に限られた家族だけで内々に行うようになった。祖父との思い出を脳のすみっこから引き寄せたり、祖父の日々の暮らしを思ったりしつつお経を聞いていたが(祖父はとてもおもしろい人だったので、そんな話もいつか書きたい)、ぼんやりと「これはいったい誰のためのお経だろう」と考え始めた。
もちろん祖父のために上げているのだが、果たして祖父はこのお経を聞いて、喜んでいるのだろうか。うちの家は特に宗教をすごく信じているというタイプではなく、なんとなく初詣もするしなんとなくハロウィンもするし、楽しいからクリスマスもするというごく一般的な日本人の家庭である。よって、祖父がお経を熱望していた/あるいは熱望しているとは考えにくい。
そう考えると、やはりこのお経はもっぱら生き残った私たちのためのものだ。祖父の死を悼み、思い出し、さらに言えば生き残った家族とあらためて手を繋ぎ直すきっかけのような。そう考えれば、お経も心なしか朗らかに響き始める。
ここらで冒頭の話に戻ろう。
わたしは自分が死んだら明るい葬式がしたい。とびっきり愉快なやつを。したいというか、してほしい。
葬式の質はきっと故人の人付き合いと生き方と死に方によるのだろうから、愉快な葬式をやるというのはかなり難しい。つまりできるだけ愉快に生きて、できるだけ軽やかにからりと死ぬ必要がある。
そうして葬式ではお経の代わりにわたしの愛したスピッツやフジファブリックやフィッシュマンズを流して、出棺のときには坂本龍一のラストエンペラーを流すのだ。そしてグレイトフル・デッドで〆る。葬式でグレイトフル・デッド流すなよ。参列した人が思わず口の片端を上げてしまうような葬式でわたしの小さな国の終わりを見届けてほしい。
と、思うが、やはり葬式は残された人たちのためのものなので喪主がしくしくしていればしくしくした式になるんだろう。しかしまあそれもまた一興というか、死後の世界があるのなら魂になってしくしくしている身内の肩をぽんぽん叩いたりしてあげたいものだ。元気出せよ人はいつかみんな死ぬよ。
というわけでわたしが死んだ時は皆さん、泣いてくれてもいいのですけれども生前のわたしのダジャレの採点などしあって楽しい会食にしてください。
何の話。おわり。
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