下書き(こんな感じでどうですか?)
これは何
なんかどうせなら小説の一本でも書いて持っていくべきじゃん?って思ったから書いてるけど、どうせ三くらいまで書いて飽きる。
本文
一
「楽しいことがあったら日記を書くことにしてみませんか」
言われてしまった。なるほど、毎日のように憂鬱なことを日記に書き続けたのでは仕方がないというのだろうか。
「そう言っても、嫌なことを吐き出すために日記を書いているのではないですか」
少しばかり不服そうに私は言う。
「うん、その通りだ」目を閉じ頷くその人は「しかしだね、君。君の日記は終わりから初めまで真っ暗い闇の中じゃないか」
ごもっともだ。そういう日記を書いているのだから。
「と言われましても、わたくしには如何ともし難いのですが」
その人は首をもたげて「う」と唸ったあと、「まぁなんだ、もう一つ日記を書いてくれ」と顔をあげて言う。そんな、ご無体な。
「毎日のノルマが増えるじゃないですか」
「いや、楽しいと思ったときだけ書けばいい。楽しいことだけじゃなくても、ほら、良いなと思った瞬間に考えたことでも書きなさい」
ふむ。嫌なことがあったらすぐ書くこれを、楽しいことがあったらすぐ書くそれにしろというらしい。
「では試してみますが。いつお渡しすれば良いので?」
「次ここに来るときでよろしい」
次に来るのはいつだろうか。
二
すっかり言いなりになった私は手元にメモ帳を常に広げた。幸い、この時代PCでメモを取ることくらい容易である。加えて、手元を見ずにタイプできるのであまり考えずに書き下せる。
必死になって楽しいことを探す私。
困った。
楽しいことはそうそう起こらない。そも毎日のように楽しいことが起こっていたら、それは漫画か映画か。30日間でエジプトに行ったりすれば、それは毎日何かしら起こるだろうが私のようにせこせこと毎日を過ごす人間には、起こりうる事柄ではない。
唸る私は一人、電車の中にいる。
一人だ。全くの一人で、箱の中にいる。
窓の外は目まぐるしく変わる。遠くの家々は動いていないように見えて、手元は毎時100キロで過ぎていく。朝10時、すっかり3限まで終わろうという時間に登校をしている。朝の冷たい空気ではなく、むしろ新鮮な空気を肺に取り込みながら揺られる。
「もし」
顔を上げるとお婆ちゃんがいた。
「これは江ノ島まで行きますか」
ターミナル駅でそんなことを聞かれる。困った。それは全く江ノ島には行かない。行かないどころか、その海とは全く違う、人の海に呑まれることになる。
「いえ、逆のホームから出る電車です」
どう見ても列車の行き先に「新宿」と書いてあるし、向こうには「片瀬江ノ島」と書いてあるのだから、そちらに行くのが良いだろうに。
「そうですか、なんだか難しいですね」
確かに。
「ええ、確かに。急行だとか快速だとか。藤沢で止まったり小田原に行ったりしますから」
全部下り行き。
「それではどうも」
ヨボヨボと歩くその姿が不安だった。
不安だったというのは正しくない。お節介を焼きたくなった。どうせこの時間に学校に着いたところでろくに話を聞かないのだから、人助けの一つをしても文句は言われまい。
いや、これを人助けというのは少々語弊がある。人助けをするというよりも人助けという行為をする私を演じるだけに過ぎないので、これは善意からの行動というより、善意という行動を目指した邪悪な感情から生まれた行動だ。
「それなら向こうまで一緒にいきましょうか」
たった階段を登って向こうのホームに行けば済む話をわざわざ生徒(遅刻している最中)が助けるというのだ。ただ相手も特に断る理由がないので「では」と言う。少しの良識があるなら断って「早く学校に行きなさい」と言ってほしいものだ。
案内している間も考え続ける。
助けるというより、助けている自分に酔っているだけであるから、どうか「助けさせてください」という立場であるべきではないか。「どうかその不安な足元を心配させてください、そしてあわよくば向こうまで案内して、片瀬江ノ島に辿り着くための方法をそれとなく教えさせてください」というわけだ。なんと、あさましい。
うだうだ考えていると向こう岸についている。案内すると言いながら私の頭は私のことを考えているので、相手のことを想った行動では全くないのが露呈する。
「どうもありがとう、なんとかなりそうだよ」
「いえいえ、それでは」
終わってみれば、まあなんと「ありがとう」を聞くために15分を費やして、そう、貴重な15分の学習時間を他人に投資した。そうですか。老い先短い老婆の心配をして何になる。おかげで快速を逃し、鈍行でひたすら学校に行かねばならぬのだ。ふと偽善という言葉が浮かんだが、それほどではない。偽善が相手のことを想っているようで、内実そんなことはないという意味で使われるのなら、九分九厘私のことを考えていたこの件は、残りの一厘で相手のことを考えていたと信じたい。
向こうを見ると小さく座席に座るその人が見える。終わってみれば、うん、良いことはした。その良いことが私の「楽しいこと探し」の材料になっていることを鑑みても、結果あの人は一人の生徒に助けられて、無事目的地につけるだろうし、その過程をも苦労することなく楽しむことができるのだから。
事の顛末をノートにまとめるが、如何せん内心がこの様であるから良い様に書けない。
『お婆ちゃんが困ってたので助けました。喜んでくれて何よりです。』
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