248杯目:野村監督の訃報を聞いて
建国記念日の祭日の朝、ネットを見ていたら突然飛び込んできた野村監督の死。
84歳という高齢なので驚くような年齢ではないかも知れませんが、
やはり驚きました。
高齢と言いながら、野村監督は自分の中では、
死という現実を感じさせないようなイメージだったのかも知れません。
しかし、昨年のヤクルトOB戦で古田さんなどに両脇を抱えられて、
打席に向かった姿に、ちょっと衝撃を受けたのも事実。
自分の野村克也さんのイメージは選手というより、
やっぱり監督。
もう監督でもないのに、野村監督と言った方が自分の中ではシックリきます。
野村監督と言ったら、ヤクルト時代から始まったデータを使った考える野球、
『ID野球』ですね。
野球に限らず当時のスポーツは、精神論だったり、とにかく走れ走れ!だったり。
スポーツは身体を使うもの、考えている暇があったら走れ!動け!
って風潮だったと思います。
自分も野球が好きで、小学生から高校生までやっていましたが、
足は遅いし、肩は弱いし、ボールは遅いし・・・
と、基本能力がゼロ。
でも、それをどうやって補って相手に勝つかとか考える野球だったので、
野村監督のID野球が認められるようになった時は、
もちろんレベルこそ大きく違えど、
大変嬉しかったです。
そうしないと、自分たちは戦えなかったのですから。
そして考えることによって、
そういった相手にも勝てると証明したのが野村監督だし。
あれで野球も変わったと思うし、
今では、逆にそれがスタンダードになったのではないでしょうか!?
『抑えの切り札』などと今では普通に称される抑え専門の分野など、
1試合の間の投手の分業制を確立したのも南海時代の野村監督。
『野村再生工場』と呼ばれた、他チームで戦力外通告を受け、
自由契約になった選手を復活させる手腕。
阪神監督時代、キャンプ中に新庄選手を、
いきなり投手練習をやらせて、オープン戦での登板など、
高校野球か漫画の世界を現実に見せてくれたのも野村監督でしたね。
あれは話題作りではなく、新庄選手を活かすための手段だったんでしょうね。
選手としても監督としても十分な実績があるにもかかわらず、
勝つために、常に新しいことに目を向けチャレンジしていた印象。
だから、高齢であれだけの実績がある大選手で大監督であったにもかかわらず、
息子や孫のような年代の若い選手にも慕われたのでしょうね。
自分の現役時代の時が一番と、今の若い選手を否定する大御所OBもいるから、
そのOBに引けを取らない実績がある野村監督は、逆に異質にさえ見えました。
でも、そうでなければ、ID野球・・・投手の分業制・・・再生工場・・・
など、野球の新しい形を取り入れ、やり遂げることは出来ないでしょうけど。
年齢的に難しいだろうな!?と思いながらも、
野球の世界大会やオリンピックでの野村監督の采配を見てみたかったな!
と思っていました。
それだけが残念です。
野村監督の本も多数読みました。
それは野球だけでなく、人間関係や人生の勉強になりました。
ご冥福をお祈りいたします。