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自分のための「可愛い」を求めて

最近、セルフジェルネイルをするのにハマっている。
ベースからカラージェル、トップコートにストーンまで全て百均で揃えて、
自分の爪を綺麗に彩っている。
自分でするのだけではちょっと物足りなくなってきたので、今度はアートやり放題のネイルサロンを予約した。
こんなことを書いているくせに、私は今まで(というか今も少し)自分に何か装飾を施す、つまりお洒落に対してかなり無頓着だった。
毎日着る洋服はジャージに等しいものばかりで、化粧は皆無。
ショッピングモールなどに行ったとしても、服にも化粧にも、とにかくお洒落全般に興味が無いので、あんまり楽しくなかった。
でも、心のどこかでは気づいていた。
興味ない、と思う傍らで、こういう格好してみたい、あれが可愛い、あれが素敵、これ欲しい、とひたすらに思い続ける自分がいることに…。
それでもなお、なぜずっとそんな自分を放置していたかというと、思い当たる節は2つある。

①自分以外の誰かに「可愛い」と思ってもらえなければ、(一種の消費を行ってもらえなければ)意味がないと思っていたから。
誰かに評価されなければ、誰かに認めてもらわなければ、誰かに消費されなければ、お洒落をしてなんの意味があるんだ、と本気で思っていた。
お洒落に自己満足を覚えることができず、誰かのための何か、になることに異常に拘っていた。
これは私が女性であることも若干関係しているだろう、と大学後期でジェンダー論の授業を受けているうちに考えるようになった。
「可愛い」と思ったり感じたり、口に出したりすることは好きだ。
だけど毎回その裏で、今の日本における女性と「可愛い」の関係性を常に考えていて、その度に女性の「可愛い」が常に誰か(主に男性たちにとって)のためのもの、誰かに都合の良いものとして存在している、もしくは存在すべきとする風潮があるんじゃないかと感じていた。
これを他の人の前で言うと、「いやいや、あんたって何でもそういうのに結びつけたがるのね。男に何か恨みでもあるの?」と言われるが、そう言う人は是非ジェンダー論を学んで欲しい。
(確かに私は男性を、特に集団になった男性たちを心から苦手に思う性質ではあるが、恨みつらみでジェンダー論をやっているのではない。)
そうすれば、これまでの社会構造の中で、女性の美しさや可愛らしさが、女性が生きていくために必要不可欠だった男性との結婚において、いかに重要であったのかを知ることが出来るから。
つまり、女性の美しさや可愛らしさが、女性が生きていくために必要不可欠だった男性との結婚において重要であった以上、その基準や在り方は男性からの視線によって定められてきた部分が大きいと考えざるおえないのである。
もちろん、男性の美しさやかっこよさの基準や在り方が、全て男性だけで定められてきたとは思っていない。
女性たちの視線によって形作られてきた側面も、必ずある。
しかしながら、男性は外で仕事をしてお金を稼ぎ、女性は家庭の中で家事や育児をする、という社会構造がずっと取られてきたことを踏まえると、もちろん例外はあるだろうが、一般的に結婚において男性に求められたのは容姿よりも、経済力である。
そのような点を鑑みると、男性よりも圧倒的に女性の方が異性に容姿を重要視されてきたかを考えることができる。
男性優位社会、と聞くと、社会における上層部(政治家や企業の重役など)が男性ばかりであったり、男性の性欲に対して異常に寛容であるがために性犯罪に対する罰則がユルユル(特に痴漢など)であることが真っ先に浮かぶが、こういう部分にも影響を及ぼしている、と私は思う。
長くなってしまったがともかく私はそういう経緯もあったりして、自分のお洒落が誰かの為のものでなければならない、誰かに「可愛い」と思ってもらえなければ意味が無くて時間の無駄、という異常なまでの強迫観念に縛られていた。

②自分の思う「可愛い」が、しばしば周囲にドン引きされていたから
母親とショッピングモールに行ったら、ごくまれに、私が洋服や髪飾りを指さして「可愛い~!」と発言することがあった。
大抵はリボンやフリルの沢山ついた、つまるところ「ロリータ」のものばかりで、そのたびに母親に
「ええ、ああ、そういうのが好きなのね。ほお、ふーん…。」
と、なにか冷めたような呆れたような、引いた声色で言われていた。
小学生の頃は鈍感だったので、母親が私の思う「可愛い」に対してドン引いているとは気づかなかったが、中学生くらいから分かってきた。
母親だけでなく、他の人たちからも程度の差はあれドン引きされていた。
そもそも私は、他の人とはかなり趣味趣向が異なっていた。
世の中で流行りとされるもの、つまり大多数の人が着ているもの、好むものにどうしても共感を見いだせない自分が居た。
そのかわり、自分は世間では「old-fashion」とされるものばかり好んで、まるで大衆に馴染めない自分の逃げ道を見出すかのように、病的なまでにそれに執着していた。
約80年前に作られた少女歌劇のための楽曲や、先ほども書いたようなボンボンフリフリとリボンのロリータ服、中国の古典舞踊…。
授業で見せられたりしたら約9割の友達はドン引くか、即刻眠ってしまうようなものばかりに病的なまでに執着し、好んでいた。
これを誰かに話すと、必ず「趣味趣向を通して自分は他の人とは違うのだということを認識して、一種のナルシズムに耽っているんじゃないか」と、どこかの国語の現代文のセリフのようなことを言われる。
でも、ナルシズムに耽ることが出来るほどであるなら、今頃私はもうロリータ歴10年のようなベテラン顔をして、堂々と街中を自分の一番したい格好で歩いているに違いない。
実際そうでないのだから、私はそんなナルシズムになんて浸っていない。
今20歳の自分がしようとしている人生の選択においても常に思っていることだが、少数派に居るということにおいて優越感に浸ったり、ナルシズムに耽ったりできることはまず無いと考えている。
多数派と呼ばれる集団に属していたほうが、人間はとても楽だし、不安にだって襲われなくていい。
少数派の目の前にあるのは、常に多数派からの好奇の目線や失笑の目線、そして自分は多数派から完全にあぶれているという疎外感と、どこか感じる強い不安だけである。
そのようなものの中に、優越感やナルシズムなんて入る隙すら与えられていない。

そんなこんなで色々な感情を拗らせたのち、私はこれまでの時間をまずお洒落には費やさず、毎日毎日地味な格好で地味に過ごしてきた。
それなのに、なぜ今自分がかなりの自己満足のためにお洒落を渇望しているかというと、昨年の末から異常に忙しくなってしまったことだ。
昨年の7月から参加していた劇場の研修の一環で書いていた脚本が選ばれ、ひと作品の作・演出を担当出来ることになった。
すごく嬉しくて、今までにないくらい浮かれていたのだが、期末試験の季節になると異常なくらい忙しくなった。
劇場側からお願いされた脚本の書き直し、セリフの削り、衣装や音響の調整…。
それだけで済むなら全然良いのだが、期末試験がとにかく厄介だった。
先を考えない阿呆な私は、忙しくなると分かっていながら上限単位ギリギリの26単位も大学に申請していたからだ。
正直言って、作・演出の世界、つまり劇場で私が接する世界に正解は存在していなかった。
演劇は限りなく「芸術」であり、これが導ければ、これが理解出来れば、ここにたどり着ければ、必ず誰かから高い評価が得られるということは保障されていない。
それとは対照的に、期末試験はおおよその正解というものが決まっていて、授業にきちんと出席し、教授の話を聞き、授業の要点を理解さえしていれば、単位というハッキリした評価が得られることが保障されていた。
(もちろん、試験に行く途中にトラブルに遭ったとか、体調を崩したりしたらその限りではないが…。)
このような対照的な世界を1日に何度も行き来する行為は、私にとってかなりの負担になった。
頭を使う場所が全然違うので、その切り替えに相当な力を消費していた。
寝る頃にはぐったりしていて、たまに不安過ぎて眠れない夜もあったりしたが、その代わり私の心には、強烈な自己肯定感が出来上がっていた。
「こんなに私って頑張ってるんだから、もっと自分らしくやっていいはず」
「こんなに頑張ってるんだから、私は可愛い」
「こんなに頑張ってるんだから、もっと私にハジケさせろよ!!」
傍からすると根拠も何も無いのに無茶苦茶な事ばかり言ってるのだろうが、無意識にそんなことを思い続ける境地にまで達していた。

…ということで、私はこんな頑張っているのでハジけさせて頂くことにした。
ハジけるというより、もっと自分の道を歩いてみようと思う。
服とかそういうお洒落だけに限らず、自分の選択だってそうしたい。
年齢相応の格好をしろと言われても、少子化が進んでいるから女なんだし結婚して子どもを、とうるさく言われても、お前なんかがそんなこと、と言われても…。













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