親への感謝の「強制化」 か? 二分の一成人式から十年
「親には感謝するべき」
義務教育期間の中で、このような考え方を徹底的に教え込まれたと感じているのは私だけだろうか。
日常の鱗片…、例えば教科書の内容とか先生の話からこの考え方を教わることもあれば、もっと象徴的に、ひとつの式典としてこの考え方を教わることもあった。
それが、二分の一成人式だった。
多くの小学校で小学四年生の時に行われている行事で、二十歳の半分である十歳で二分の一成人式を行い、親への感謝を伝えよう!というものだ。
もちろん私も参加した。
というか、学校行事なので余程の理由が無い限り絶対参加だった。
親への感謝の手紙を用意し、お父さんお母さん育ててくれてありがとう、といった内容の歌を歌った。
一見すると、とても感動的で素晴らしい行事のように思える。
私も良い行事だなあ…と、しみじみ幼心に感じていた。
が、なぜか腑に落ちないところがあった。
両親へは感謝していたものの、なにかが違うと明らかに感じていた。
今回の記事では、感じていたその違和感についてまとめていこうと思う。
感謝できる人が感謝したいと思った時に
私が二分の一成人式に対して違和感を感じていた理由は、二分の一成人式はその行事を通して「親には感謝するべき」という考え方を各々の状況も顧みずに徹底的に押し付け、親への感謝、そしてその感謝を伝える方法までもを感謝できる人できない人関係なく全員に「強制」していたからである。
そもそも感謝という行為は、誰かから押し付けられてするものでもなく、誰かから言われたから、しないと怒られるから、という理由でするものではない。
自然と自分の心の中から湧いてきて、それを伝えたいと思った時に、自分の好きな方法で、伝えるものだと私は思う。
他人や学校、その他の集団から強制されてすることでは決してない。
「親には感謝するべき」なのではなく、「親に感謝できる人が、感謝したいと思ったときにしよう」だと、私は思う。
こういうことを言うと、いつも「親不孝だ」「薄情者」などと言われるが、湧いてもいないのに無理やり自分の中で感謝の感情を作り出し、偽物の感情を伝える方がよっぽど「親不孝」で「薄情者」だと思うのは、私だけだろうか?
感謝できる人が感謝したいと思っているのに、面倒くさがって行動に何も移らないのは確かに「親不孝」で「薄情者」だ。
しかし、どうしても感謝できない人が親に感謝していない状態に対して、「親不孝」だの、「薄情者」だの言うのは間違っている。
むしろ、他人の状況や立場を微塵も顧みず、感情が湧くのを強制させるほうが何千倍も薄情である。
私の場合は心から親に感謝していたので伝えることにキツさを感じることは無かったが、全員が全員私のような状況だっただろうか。
親との関係性なんて十人十色なのに、学校側から二分の一成人式という絶対参加の行事を通して感謝を「強制」されるほど、「親」という立場にある全ての人が神聖で素晴らしい存在なのだろうか。
もちろん、そのような親もいる。ただ、全員が全員そうではない。
その証拠として、世の中では常に虐待や毒親の話題で溢れかえっている。
それなのになぜ、日本では各々の親子関係も顧みず、「親には感謝すべき」という考え方を教え込ませ、挙句の果てには二分の一成人式という行事を通して感謝を「強制」し、さらにはそれを伝える方法までもを「強制」してくるのだろうか…。
二分の一成人式はどうしていくべきなのか
二分の一成人式という行事から十年後、二十歳になり本当の成人式(今では二十歳の集いと呼ぶらしいが)を迎える今になっても、二分の一成人式に対する違和感は拭えていない。
十年前に覚えた明らかな違和感は大人になるにつれて溶けていくのかもしれないと思っていたが、未だに変わらないままだ。
これからの長い人生の中で、この感覚は綺麗に溶け去るのだろうか…?
人生の節目と聞くたび、この二分の一成人式を毎回思い出す日々である。