【前編】海を越え、山を越え、ビールと旅するブリュワリー「Passific Brewing」の地域をつなぐビールづくり
オシゴト湘南編集長のイシヅカ カズトです。
みなさん、突然ですがビール飲んでますか?
ぼくは飲んでます(もちろん最近はもっぱら自宅で)。
ところでこれを読んでくれている湘南のビール好きのあなたへ。
朗報です!
茅ヶ崎北側に新たなブリュワリー(ビール醸造所)が誕生しました。
長い自粛が続く状況下で世間のクラフトビール熱も少し息を潜めているように感じるこの最中にも、クラフトビールづくりへの情熱を抱えて淡々と新たな醸造所を立ち上げる若い世代がいます。
Passific Brewing共同代表の大庭陸(おおばりく)さんと山本俊之(やまもととしゆき)さん
今回は、茅ヶ崎北側の廃工場を再活用して立ち上がった新たな醸造所「Passific Brewing(パシフィックブリューイング)」共同代表の1人、大庭陸さんにお話を伺いました。
未経験から飛び込んだクラフトビール造り
ーまずはビールづくりに興味持ったきっかけから聞かせてもらえますか?
茅ヶ崎北口「ビアカフェホップマン」での大庭陸さん
大庭陸さん :たしか20歳前後のころに北口に「ビアカフェホップマン」というクラフトビールのバーがオープンして、そこで初めてクラフトビールを飲んで感動して。それから1年間は毎週ホップマンさんに通ったり、休みの日は東京にビール飲みに行ったりするうちにビールの仕事がしたくなったんです。
そんな時にホップマンのオーナー田代さんに「志賀高原ビールさんの求人が始まったみたいだよ」と教えられて。当時一番好きだった醸造所だったので「僕、応募します」って答えました。
その3日後に田代さんから「うちに志賀高原ビール代表の佐藤さんが来てる」って連絡が来て。急いで自転車で行って、とりあえずカウンターのちょっと離れたところに座って。田代さんから「実は彼が求人に応募したいらしくて」と佐藤さんを紹介してもらい、そこでいきなり仮面接が始まりました笑
ー急ですね笑。にしても田代さん、めっちゃ優しい。
佐藤さんから「何か一杯飲みなよ」って言われて「とりあえず志賀高原ビールを飲まなきゃ」みたいな笑。 その1ヶ月後に長野に行って本面接をして、無事に採用に。だからお酒の学校や専門学校とかは行ってないです。
ー入社してからビールづくりを学んだ?
そうですね。実はビールについて学ぶ場所ってまだあまりなくて。
ービール醸造の専門学校ってあるんですか?
醸造の専門学校とか農大の醸造学部とかはあるんですけど、基本は日本酒づくりがベース。お酒なんで共通するところはありますけど、似ているようで違う。本で独学で学んだり、現場に入って先輩から教えてもらうのが普通。
ーそれは日本のクラフトビールの歴史がまだ浅いからなんでしょうか?
そうですね。地ビール法改正があってから地ビールブームになって、アメリカの影響でクラフトビールが流行ったのも結構最近だし。そもそも「クラフトビール」って呼ばれ始めて10年ちょっと。
ー志賀高原ビールに入ってどんな仕事からスタートしたんですか?
最初は朝から日本酒づくりを手伝って、ビールの瓶詰めを手伝って、配達やって、農業やって。
ー農業もやるんですね。
志賀高原ビールさんの酒づくりの特徴として、農から関わる所がある。主なところではホップ育てたり、小麦もそうですし、最近だと、ブルーベリーやラズベリー、酒米も育てたり。彼らにはもともと日本酒の酒蔵で自分達で米を育てていたルーツがあって。当時はホップを育てているブリュワリーはほとんどなかった。
ーその考え方はすばらしいですね。
少しワインのカルチャーに近いかも。ワイン造りは8割がぶどうづくりみたいな感じがあるじゃないですか。ビールの業界は99%くらい輸入ホップを使っているんですが、彼らは自分達でも作る。とはいえ使う量の10%に満たない位しか収穫できないんです。
ホップの実
ー国産のホップと海外のホップは違うんですか?
そもそも国産ホップはほぼ手に入らない。一応育てられる地域はあるんですけど、面積に対して取れる量が少ないんです。
ーとなると日本は土地の狭さがネックですね。
平らで広い土地がないと、効率よく育てられない。商業ベースに持っていくにはかなりハードルが高いですね。ホップって、5mぐらいのつるが伸びて上の方まで房がなるんです。なのである程度機械化しないといけないので、本当は広い平地が必要になる。
ー志賀高原ビールの敷地内にはホップ畑があるんですか?
そうですね。工場から離れてちょっと道を挟むと、田んぼがあるエリアになるので。そこを使ってホップ畑にしてました。そこは段々畑で機械化はできず一つ一つが手作業。くわで掘って、梯子に登ってつるを落として、みたいな。
志賀高原ビールのホップ畑の様子
地ビールブームを越えて
ー志賀高原ビールさんはいつからクラフトビールを始めたんですか?
たしか2004年頃。当時は地ビールブームが過ぎ去った頃だったと思うんです。
ーいろんな地ビールが出ましたが、当時はあまり根づかなかった感じもありましたね。
確か1996年ぐらいから地ビール解禁になって盛り上がって、その手前でピークがきてそこから廃れていくタイミングで志賀高原が始めたわけです。その年は関東甲信越でビールの製造免許を取ったのは志賀高原ビールだけだったとか。
ーなぜ地ビールって根付かなかったんでしょうか?
僕はその頃飲んでないんですけど、「いわゆるお土産ビールでしょ」みたいな雰囲気だったんじゃないでしょうか。解禁になった時に、日本酒メーカーだったり観光施設をやってる所が「自分達でつくります」から始まる。でも技術者がいない中で海外技術者を雇ってレシピをつくったはいいけど、実際それをうまく運用できずに良いビールができなかった。それが続いて下火になったんじゃないかと思います。その中でも工夫して頑張ってきた人達が生き残って、アメリカでクラフトビールが流行り始めたタイミングと一緒に盛り上がってきた。
ーその後約7年弱在籍して、最後はどういうポジションに?
ビール工場メインでアシスタントとして何でもやるポジションでした。3年目あたりからいろいろ任せてもらえるようになったんです。
ー独立して醸造所をやりたいことは社長に話していたんですか?
入社した時にはもう言ってました。
ー辞めるタイミングとしては、自分の中で一段落した感じがあったんでしょうか?
やらせてもらえることは増えたけど、自分のレシピでビールを作るチャンスがまだなかった。会社の仕組み上では仕方ないんですが、本当に独立するならそこにちゃんと自信を持ってないとできない。それが一番大きな理由です。
<後編につづく>
Passific Brewing(パシフィックブリューイング)
神奈川県茅ヶ崎市萩園2644−3
問い合わせ先: orderpassificbrewing@gmail.com
・Passific Brewing FBページ
https://www.facebook.com/profile.php?id=100063613298164
・Passific Brewing オンラインショップ
https://passific.thebase.in/
・玉村本店(志賀高原ビールの酒造)
ものをつくるひとを応援するために、いろいろな現場を取材しています。ここで得たサポートは、その取材活動に活用させていただくことにしています。