「海辺のストルーエンセを観て考えてみた」感想①
宝塚という輝かしい世界を見ることを趣味としている私にとって、演出家に重きを置くことはつい最近までなかった。そう、指田珠子先生の作品に出会うまでは。
龍の宮物語、冬霞の巴里と立て続けに評価の高い作品を輩出してきた指田先生の最新作、海辺のストルーエンセを観劇してきました。
私自身はまごうことなき生粋の雪組ファンであり、朝美絢さんに首ったけです。そんなファン目線から見て、こんな朝美さんが見たかった!のてんこ盛りでしたがキャスト陣の感想はまた別として、この作品から得られた概念、考察を自分なりに考えてみました。
朝美さん「観終わった後、もう、何を思ってくださっても大丈夫です」
ナウオンステージで最後の最後に朝美さんが言っていたこの言葉。これを聞いたとき、感じた感情をそのままに持ち帰ろうと決めました。
以降、私が観劇して考えた私なりの考察です。こんな考えもありかもな、くらいの気持ちで読んでくださると幸いです。
気になったポイント
良い意味で、観客に考えさせるためのつまずきポイントを指田先生は生み出しているように感じます。個々の解釈が自分の中に生まれたとき、この作品自体を落とし込むことができるのではないかな。
恋に落ちた明確な理由
作品の中では、ストルーエンセとカロリーネが不義の恋に落ちるまでの明確な過程は丁寧に描かれていませんでした。そこに物足りなさを感じた人も少しいたようでしたが、実はここが一番作品を観終わった後の考察タイムで時間をかけるべき点なのではと感じました。
この作品の大きな主軸は「何者にでもなれる」という自分の信念に沿って自分は何者になれるのか模索し、もがくストルーエンセの人生観です。
この話の前提に、クリスチャンとカロリーネには具体的なこうなりたいというロールモデルが存在していますが、ストルーエンセはいません。彼自身、時代の先端を行き過ぎていたのでなりたい像すらも持てなかったのでしょう。だから自分が「何者かになりたい」と思い続けています。さらに、ストルーエンセには「啓蒙思想を庶民に広め、世界で活躍したい!」という抽象的な目標はあるけれど、具体的にどうなりたいのか語っていません。なので、二人に近づくことができ、目の前の視界が良好になって欲にまみれていくたびに、ストルーエンセの中にある軸がブレブレになっていきます。そこが、重要なポイントです。
1幕で、カロリーネのふさぎ込んだ堅物な姿を見てたストルーエンセが2人で追いかけっこをしたのち、カロリーネの根底にあった本来の明るさを知ったことによって心が揺らぎ始めます。しかし多分、ここではストルーエンセ自身、カロリーネに惹かれている自分の心に気づいていないです。それよりも、最初の目標であった金と権力を持つために、クリスチャンと比較してカロリーネを見ていたように思います。それが、「クリスチャンとカロリーネの正しい王、王妃でありたいと思う共通部分を発見した。二人は仲良くなれそうではないか(意訳)」の台詞につながるのでしょう。
では、どこが二人の感情が交差した瞬間なのか。私は、ストルーエンセ、カロリーネ、クリスチャン、ブラントの4人で新たな社会を作り出そうと朝焼けを眺めた瞬間だと読みます。クリスチャンとカロリーネが互いに同志として歩み寄ることができたその時、ストルーエンセは同時に3人の仲間を持ちました。
誰かの心を開くことができた。
その事実によって「相手に小さな幸せを与えられる存在になれた」「自分が何者かになれた気がする」そう感じることができたのでしょう。この感覚、最初のストルーエンセが描いていた「何者」を理解していて比較できる観客(我々)から見ると錯覚だと思いませんか?彼は、自身の思想を広める為の何者かになりたかったはずです。けれどストルーエンセからすると、これこそが自分の存在価値を感じられた最初の感覚だと思ったわけです。
こうすると、フォレルスケット(誰かを好きになった時に感じるとても幸せなあの感じ)を指田先生が副題にしたのも、この加速していく恋心が破滅へと導くキーワードになる言葉として合点がいきます。この瞬間、ストルーエンセの軸は「野心」から恋心を含んだ「欲望」にシフトしていきます。
そして、1幕最後のストルーエンセとカロリーネの禁断のキスシーン。ストルーエンセはブレた自身の軸に気づかないまま運命の舵を切るのでした。
「泣いているのは私ではない」
2幕中盤、劇団の公演にてカロリーネとストルーエンセの不倫が明らかにされた後、追い詰められた二人は静かに言葉を交わします。
「泣いているの?」
「泣いているのは私ではない」
こんな感じの台詞があります。
劇中歌に「これから形作る太陽と月を追う狼のごとく止まることを知らない」という歌詞が出てきます。(後半何度もリプライズされるのでこの作品の象徴となる言葉でしょう)これは、調べてみると北欧神話に基づいているようです。【狼であるマーナガルムはすべての死者の肉を腹に満たし、月を捕獲して、天と空に血を塗る。そのために太陽が光を失ってしまう。】カロリーネを愛してしまったストルーエンセによって、新たな国を作ろうとしたクリスチャンはその希望を失ってしまうのだと。うーん、素晴らしい比喩表現で…
また、2幕の劇中劇では、「化けるのが得意」と表現されていました。
ストルーエンセは狼であり、化けるのが得意。
赤ずきんを彷彿とさせます。(赤ずきんはグリム童話でドイツのお話というのも、ストルーエンセがドイツ出身であることに掛かっていますね…指田先生こわい…すごすぎる…)
おばあさんに扮した狼は、赤ずきんに本性がバレて殺されてしまう。よって、隠せていた恋仲もいつかはばれてしまい、死をもって罪を償う。そんなオマージュに思えます。
ストルーエンセは、患者相手にチャラチャラと接するお調子者かと思いきや、耽美的な魅力を持っていたり、口が悪かったり、冗談を言ってみたかと思えば真面目な話をしたり。本当に一人の人間なのかというほどの多面性。しかし、この多面性は性格ではなく今まで取り繕ってきた役。貴族や、自分を求めた人々の期待に応えようとしたストルーエンセの苦い人生の賜物。その役達に化け続けたことで、知らないうちに本当の自分が何者なのか見失い、恋に翻弄されて理想を探し求めることすらもできなくなった。
劇中で何度も耳にする「役を間違えれば首を切られる」はストルーエンセが宮廷で成り上がった時にこの役の選択を間違えたことを示唆しています。
そして、不倫が公になってもう自分の幕切れが決まってしまった。そんな時になって、ストルーエンセは本当の自分の姿や気持ちにやっと気づくわけです。金も権力も何も持っていないあの頃の自分に戻った、最初の言葉があの一言だったのだと。
拡大解釈
「泣いているのは取り繕っている役の私ではない、欲にまみれる自分に気づかなかった本当の自分が泣いている。」
1幕でのカロリーネの台詞
「他人の痛みには敏感なのに、自分の痛みには鈍感なのね」
ここに帰着するのでした。
本当の自分
二幕最後のクライマックス、本当の自分に戻ったストルーエンセは絶望的な嘘を吐き続けます。
「権力と愛欲のために王妃様を弄ばせていただきました。」
「俺は王妃も、この国も、何も愛しちゃいなかったんだよ!!」
その場面で発する言葉はどれも空虚のもので、一言一句に思っていることと言っていることの矛盾点が分かってしまっているからこその、嘘をつき続ける苦痛。一緒に未来を描いてきた3人にとって、見破るなんて言葉にも値しないぐらい下手な芝居なんですね。彼らは、ストルーエンセがすべてを愛していたことをちゃんとわかっていました。分かっていなかったのは、手だけが動いていた過去のストルーエンセだけ。だから、史上最高の悲劇的な茶番になってしまった。愛したものが明確に分かっているが故の大きな嘘です。
ラストシーンでストルーエンセが言った真実は
「ああ…なんて美しいんだろう」
死に際のこの一言だけでした。
執務室でのランツァウ伯爵との対峙の際、ストルーエンセは「手柄がとれてよかったですね」と皮肉を言います。けれども、実際手柄を取ったのはクリスチャンでした。(処刑後にユリアーヌから英断であったと評価されていた)ストルーエンセがこのくさい芝居を打ったのも、一人残されるクリスチャンのために、今後王室で生きていくのに必要な手柄をあげたかったから。
ストルーエンセは、最後までクリスチャンに愛を教えました。
制作陣から見える物語
今回の衣装担当は加藤先生。個人的意見なんですけれど、有村先生と加藤先生の衣装センスは群を抜いていると思っていて。前作、冬霞の有村先生に続いて、今回も衣装から考察ができるという素晴らしい偉業を指田先生と成し遂げております。
一番興味深いのは、やはり衣装についている金箔の存在でしょうか。幕開けに見ると、宮廷の人物には金箔が付いていますが、ストルーエンセ、カロリーネ、クリスチャンにはついていません。
ところが、夏至の仮面舞踏会の場面で、ストルーエンセの衣装だけに金箔が付き始めます。そして2幕の赤い衣装に半分ほど金箔がちりばめられていましたが、ストルーエンセが絶望の淵に立たされた時、再び何もついていない1幕の初めの衣装に戻るのです。
この金箔が意味するものは、きっと「欲望」。宮廷の人間は、この世界を自分の意のままにしたいという気持ちが少なからずあります。よってストルーエンセが、クリスチャンを放って自分が政治を執り行い始めた時、その企んだ欲望の大きさは衣装の金箔の多さに比例している、という視覚的に分かりやすい指標を作ってくれるものでした。これに気づいたとき、誰しもが唸ったことでしょう笑
そして、気づきましたでしょうか。第二幕のストルーエンセは青から赤色の衣装へと変わり、ストルーエンセとの愛を育む描写を生み出した中盤のシーン以降、カロリーネの衣装も青からピンクのドレスへと変わっています。対してクリスチャンの衣装を見ると黄色のままなんですね。
科学や理性を信じていたストルーエンセが不義の恋で身を狂わせ、カロリーネとともに変わり果てていく。そんな二人の様子が表現されています。素晴らしすぎる…
ここで脱線しますが、今回「魔法」という言葉が印象的に使われております。2年前に同じ場所でほんものの魔法使をやったというあーさ自身のルーツを指田先生がうまく使っているなと。ストルーエンセがブラントに放った「魔法などを信じるのは嫌いだ。時代遅れにもほどがある。」このようなニュアンスの台詞。ほかにも「魔法は全部嘘、科学こそが心理。」魔法なんてくそくらえのような思想の持ち主だったのが、カロリーネと愛をささやくシーンでは「まるで魔法みたいだ」「君が口にする魔法はとても愛らしい。信じてもいい(ニュアンス)」と180度逆転してしまっているところがまたさらにストルーエンセの恋の溺れ様を表現してくれているのでした。
指田先生の新たな傑作に拍手を
何者かになりたかった3人が、何者にでもなれると錯覚し、最後には身を滅ぼしていく。
あらすじをまとめると一見普遍的なストーリーのように思えますが、三角関係の中に絆が存在していたことがポイントです。
シェイクスピア的文学を交えた指田先生の余白のある演出が、考察が好きなファンにとってはグサグサと刺さります。これからのご活躍に期待しています…(指田先生強火オタク)
全てが終わり、一人海辺に佇むストルーエンセ。
鈍色に包まれる空と荒れる海。
彼自体が一瞬、強く宮廷に吹いたデンマークの潮風だったのでした。
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