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夢のお話

私は小さい頃から、よく夢を見る。
それはカラフルで、音や匂い、感情までも鮮明で、だけどたまに「これは夢だ」と夢の中で理解している時もある。

夢の中でする恋は現実よりも淡かったし、食べたものはとびきり美味しく、走るとすぐ疲れた。
全てが現実よりも大袈裟で、ドラマティックだった。

小学生の頃、母に買ってもらった夢占いの分厚い辞書のような本が大好きで、朝起きてまだ見た夢を覚えているうちに本を開いてはこの夢にはこういう意味があるんだなどと思っていた。


だんだんわかってきたのが、もちろん占いと謳っている通りあくまでそれはぼんやりしたものなのだけど、どうやら本当に自分の体調や気にかけている事にリンクしているようだった。

小さい頃の私は夢を「占う事」を楽しみにしていたので、その先まで考えは至らなかったけど、大人になるにつれて夢は占うものではなく、健康診断のような、自分の無意識の部分を具体化してくれる、しっかり人体や精神に基づいたものだということを思った。
夢の事を考えるとキリがなくて、ワクワクした。

そんな夢好きな私が特に気に入って延々とその事について考えていたのが映画「パプリカ」と「インセプション」だ。
初めてこの2作品を見た時、自分の他にも夢についてこんなにも考えていて、プロなのだから当たり前だけど、それをとことん調べて作品にまでしてしまっているなんて!と恐れ慄いた。

私は更に夢について考えるようになり、その頃には印象深い夢を見て起きた朝は、スマートフォンに飛びつき忘れないうちに断片的な事でもいいからメモをするようになっていた。

映画インセプションでもあったように、夢の中の長い長い時間は大概、現実世界の数分、或いは数秒で、どうして一瞬にうちのそんなにも長いストーリーが脳内で描かれるのか、不思議で堪らない。
普段私たちは目を瞑って何かをイメージしても、イメージした分だけの時間がかかり、早回しのような技術は持っていない。

何処かから落ちる夢を見るのがいい例で、落ちる夢は、その落ちるまでに至る物語がある。

都会に突然巨大な戦車が現れて、でも街を歩く人々はその、違和感しかない大きさの、しかも戦車に気づいていないのか、何もないという顔をして歩いたり喋ったりコーヒーを飲んでいる。

自分だけが何故か追われていて、目についた崩れそうな外壁のないコンクリートの建物に逃げ込むが、追い詰められる。
戦車を降りた大勢の見知らぬ人が乗り込んできた途端その重さに耐えられず建物が崩れ始める。
必死にバランスを取るが最後、コンクリート片と共に自分も落ちていく。


大抵、そのくらいのストーリーがあって、私達は夢の中で落ち、現実で目が覚める。
これだってきっと現実世界で寝ている私が体勢を崩し、徐々に落下へ向かう、もう落下する事が決まってからの、ほんの数秒の間の出来事なのだ。
落下が決まる前から見ていたのではなく、行儀良く天井に顔を向けて寝ていたのならこの夢を見ることはない。

もしくは、行儀のいい時に見ている夢がそもそもあって、落ちる体勢になった途端、行儀のいい時の夢に落ちる夢が上手い具合に繋がるのか?
それを都合のいいように記憶しているのか?


夢を調べている人はたくさんいるようだけど、結果は曖昧な事しか世に出てこない。
人間の脳内の、本当に不思議で、とてつもない可能性が含まれていそうな、もはやこのままわからなくても、答えが出なくてもいい気もする。
その無限に深い魅力について考えている時間がとても有意義だから、私はそれでいい事にしている。

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