晩年に狂ってしまった天才科学者(分子栄養学)
コロナ禍以降
いかがわしい美容健康商品を取り扱う悪徳業者や
そのオコボレにあやかろうとする情報発信者が急増している
そういった卑しい人々が根拠として挙げる代表格が
トーマス・エジソンやライナス・ポーリング博士といった偉人たち
死者と会話できる「霊魂交信機」という製品の話しを聞いたら
みなさんはどう思うだろうか?
よほどスピリチュアルに傾倒していない限り
荒唐無稽なアホ製品だと感じるであろう
ご存じの方も多いであろうが
実は霊魂交信器=Spirit Phoneは
降霊術の集会に足しげく通っていたエジソンが
20年以上のコストをかけて心血を注いだ未完の発明品である
Scientific American Magazine October 1920
天才が常に天才のままでいるわけではない
ある出来事によって常軌を逸脱し
その名声や功績によって
多くの人を惑わし悩ます大罪人に成り下がることもあるのだ
さて、本題である分子栄養学の話しに戻ろう
現在、分子栄養学には2つある
ひとつは生物化学分野における「ホンモノ」の分子栄養学
これは遺伝子レベルで栄養分や栄養素が生体においてどのような作用をするのかを追求する学問
私たち一般人の生活に直結しないという点においては宇宙開発と同レベルの遠い学問である
もう一方の「ニセモノ」の分子栄養学は別名がたくさんあり
オーソモレキュラー理論という原題から分子整合栄養学
分子整合医学、分子整合栄養医学と名乗ったりする団体もある
このニセモノの分子栄養学の提唱者こそが
ライナス・ポーリング博士である
ポーリング博士は1954年にノーベル化学賞を受賞した
偉大な研究者であることに疑念の余地はない
生涯で300を超える研究論文を発表し
その分野は放射エネルギーの共有結合、X線結晶構造解析、原子間結合
量子化学計算、人権活動、平和運動など多岐に渡り
それぞれの分野の第一人者との親交も厚かった人物
ポーリング博士38歳の時に発表した
「化学結合の正体(本性)」という研究が世界的に評価され
多くの科学者たちが彼の研究を追従し
発表から15年後に前述のノーベル化学賞受賞に至った
この38歳の研究に貪欲な才能に目を付けたのがロックフェラー財団
全面的な資金援助の見返りとして
もっと一般人に分かりやすくて役に立つ
安直に言えば利益を生む分野での研究を求めた
一般人に分かりやすくて役に立つ分野として
ライナス・ポーリング博士が選んだのは生体分子の研究だった
もともと
硬くて動きにくい結晶といった無機分子を専門分野にしていた彼にとって
固定しづらいタンパク質などの有機分子を扱うのは困難を極めた
当時は科学研究が最も盛んな時代
彼が着手した研究は次々と別の秀才たちによって解明されていってしまった
自他共に認める天才は焦りながらも生物学に
物理学的・数学的アプローチをかけるというスタンスを崩さなかった
正確には自身の功績に基づくスタイルを崩せなかった
はやる気持ちを抑えきれずに
1953年1月28日に「DNA三重らせん構造論」を発表してしまう
しかし同年4月25日
のちにノーベル医学賞を受賞する
ジェームズ・デューイ・ワトソン博士とフランシス・ハリー・コンプトン・クリック博士によって
DNAは二重らせんであることが証明され、ポーリング博士は
「焦りと慢心によって私は人生最大の失望を味わった」と後年吐露している
DNA三重らせん構造論の発表と前後するが
1949年11月25日にポーリング博士は赤血球が三日月形に変質してしまう
鎌状赤血球貧血症がDNA分子の遺伝疾患であることを突き止め
分子遺伝学という新しいジャンルを開拓したという功績もある
しかし、鎌状赤血球貧血症の遺伝要素が黒人に多く発現する事実を加味し
欠陥遺伝子を持つ者の額にタトゥーなどの目印をつけて子孫を残させるべきではない
などというナチスと同質の優生思想を
ニューヨーク州立大学での講演で平然と語ったりもしている
偉大な科学者が狂い始めたのには理由がある
1941年、ロックフェラー財団の後ろ盾を得た直後にポーリング博士は
当時ブライト病と名付けられ
まだ明確な治療法が確立していなかった慢性腎炎に見舞われ
四肢のむくみや動機・息切れに悩まされていた
潤沢な資金で研究に没頭できる環境を手放したくないポーリング博士は
藁をも掴む思いで血液凝固の解明で名を挙げた
トーマス・アディス・ジュニア博士の研究に基づき
低タンパク質、無塩食と併せてビタミン&ミネラルの過剰摂取という
アラワザでこの難病を何とか抑え込むことに成功してしまう
この成功から彼は
オカルト(科学的根拠のない)医学に
傾倒し始める
もっとも有名なのはアーウィン・ストーン博士に影響されて
メガビタミン療法と名付けた
ビタミンCの大量過剰摂取こそが真の予防医学だ!という研究だ
精神病は酵素不足が原因だ!
ビタミンであらゆる感染症から身を守れる!
いやビタミンで癌も治る!とまで言い出してしまう・・・
本来的に科学とは再現性のあるもの
つまり客観的な現象として扱うべきであることはポーリング博士も
重々承知していたはずである
にもかかわらず
自身の慢性腎炎の症状をたまたま抑制できたアラワザと
高用量ビタミンC服用の実感という個人の主観を妄信してしまった
そしてもう一つ
ポーリング博士がオカルト医学に固執した理由がある
それが愛妻エイヴァ・ヘレンの胃がんである
上記の1972年の論文は1970年に出版した一般向け書籍
「ビタミンCと風邪」を学術的に編纂し直したものだが
このころからエイヴァ・ヘレンは消化不良を訴えはじめ
1976年に胃の3/4を切除する胃がん手術を受けた
この直後にポーリング博士は改訂した
「ビタミンCと風邪とインフルエンザ」を出版し
エイヴァ・ヘレンにビタミンCの大量摂取
ビタミンとミネラルの過剰摂取を実践させた
胃がんを乗り越えた愛妻を称える形で再改訂し共著に
ユアン・キャメロン博士を迎えた「癌とビタミンC」を1979年に出版した
この「癌とビタミンC」の中で繰り広げたポーリング博士とキャメロン博士の独自の理論をラテン語で正確を意味する「オルト」と
分子を意味する「モレキュレール」を組み合わせて
オーソモレキュラー理論という造語を作って
広めようとした
ポーリング博士とキャメロン博士は
オーソモレキュラー療法を施した末期のがん患者100人と
そうでない末期がん患者1,000人とを比較すると
生存率が4倍以上も高かったという論文を発表するも
即座に多くの研究者らによって反証され
学術界で権威を失っていき、学会向の論文発表ではなく
一般向けの書籍出版と講演会に情熱を傾けることとなる
さらに追い打ちをかけるようにビタミンCの大量摂取と
ビタミンとミネラルの過剰摂取を実践していた
愛妻エイヴァ・ヘレンであったが
5年半の辛い闘病生活の果てに1981年12月7日に永眠した
この時ポーリング博士が20歳若かったら
この後の行動は大きく違っていたかもしれないが
このとき彼は傘寿を迎えようとしていた
もはや我に返り自省する時間的・精神的余裕はなかったのだ
翌1982年9月24日にはサンフランシスコで開催された
第12回アメリカ老化学会の年次総会では
「老化はビタミンとミネラル不足」という講演を臆面もなく行っている
最愛の人を失ったポーリング博士の
暴走は止まらない
このころに親交を深めた精神科医であるアブラム・ホッファー博士と共に
アメリカ小児科学会から危険な団体と名指しで非難されていた
潜在能力実現研究所(IAHP)で脳損傷を受けた子供の治療に
ビタミンCの大量摂取とビタミンB3の過剰摂取による治療を強行し始める
さらに1986年には
エイヴァ・ヘレンとの人生を振り返る自叙伝の形を取りつつも
妻が胃がんに斃れたのは摂取が遅かっただけであって
ビタミンCの大量摂取とビタミンとミネラルの過剰摂取で
100%がんは治る!という主張を展開する
「より長く生き、より良く生きる方法」を出版してしまう
挙句の果てには講演会で
食事では充分なビタミンやミネラルを摂取できない
だから(ロックフェラーが出資しているメーカーの)サプリメントを
全種類買って家庭に常備するのが主婦の務めだ!
などと吹聴し始める始末・・・
一般紙はノーベル化学賞・平和賞のダブル受賞者の言う事だから
間違いないと大々的に報じたが
オーソモレキュラー理論は生物学界や医学界の良識的な研究者たちによって
次々と反証され、全面的に否定され続け
まさに「歳寄れば愚に返る」の典型例として
その名声は地に落ちてしまった
ロックフェラーの後押しもあり、しばらくの間オーソモレキュラー理論は
大衆に信じられていたが、実は学術界での権威が完全に失墜し
論文発表の場を失った事実が周知されるのは早かった
名声を失った彼は同時にロックフェラーの後ろ盾をも失い
統合失調症にはビタミンB3が効くと主張していたホッファー博士と共に
ビタミンとミネラルなどの微量栄養素によるがん治療や
アミノ酸の一種であるリジンによる心臓病治療の研究を細々と続けたが
奇しくも約10年後1994年8月19日19時20分に前立腺がんで亡くなった
なお、共同研究者であったホッファー博士は2009年に心臓病で亡くなっている
神のいたずらなのか
二人が最期の研究対象によって亡くなっているのが本当に痛々しい
とは言え
ポーリング博士の化学結合の正体という大いなる功績は
ホンモノの量子力学の礎となり
混成軌道理論や電気陰性度に関する考察は
現在の様々な化学分野でのスタンダードとなっている
晩年がどうであれ、ポーリング博士が
正真正銘の偉人であることに疑いはない
ここで前段の「霊魂交信機」に話を戻そう
エジソン本人はあまり言及していないが
生涯の右腕チャールズ・バチェラーによれば
エジソンは常に亡き母を恋しがっていたという
エジソンは数か月しか小学校に通っておらず
母親から読み書きや算数を教わったというのは有名な話だ
後年の創作かもしれないが
「ご子息は天才です。当校にはご子息を教え導ける優秀な教師はおりませんので、教師であった母上が適任だと思われます。」
という手紙を受け取り、自宅教育をしたとエジソン伝記には記載されている
しかしポープ・エジソン社設立の2年後
エジソン24歳の時に急死した母親の遺品整理で出て来たその手紙には
「ご子息は頭が狂っている。もう学校に来させないでもらいたい。」
と書かれており
母の深い愛情を再確認して何時間も泣き続けたのだそうだ
1905年にアインシュタインによって提唱された
「質量とエネルギーの交換の可能性」によって
物質としての質量を失った母はエネルギー体として
どこかに存在しているのではないかというオカルト思考が
エジソンの長きに渡る霊魂交信機開発の後押しをしたのであろうと邪推する
また五男のチャールズ・エジソンには自分の臨終の最後の吐息(Spirit)を
試験管に採取して親友フォードの元で保管し
未来にそのSpiritから蘇生したいと伝えていたという
最愛の妻を救いたいという願い
最愛の妻を救えなかった後悔
最愛の母ともう一度話したいという想い
永遠の死に対する恐怖
300を越す論文を積み上げノーベル賞を2回も受賞するほどの天才であっても
1,000件を越す実用特許を取得し800億ドルもの収入を得た稀代の発明王であっても
愛する人や死が絡むと
人はいとも容易く
盲目になってしまうという実例である
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