大原美術館と佐野美術館(フレデリックに魅せられて)
12/2、私は倉敷にいた。
記事の執筆の期限をとうに過ぎていたため、前日の12/1はホテルの外に出るのをやめ、執筆に務めた。そして2日は、10時のホテルのチェックアウトの後荷物を預け、軽装となった私は、倉敷の街に繰り出した。
あれは4年前だったか。自分の誕生日プレゼントにと、なかなか観光できていなかったこともあり、どこか行こうと親と話していた。
その時、行きたいなと思っていた場所。そこは倉敷だった。今回、岡山は倉敷に滞在したのは、前回、大原美術館で観た、フレデリック(1856-1940)ベルギーの『万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん』をもう一度観たいと思っていた自分がいたのかも、と今振り返る。
じっくりと、拝見。
これ、絵画なの?と思うほど、肌のしっとり感やツヤ感を感じる。
あれ、あの人、私の知っているあの人と似てる。
女で別れてもいないね、老若男女だね。
初めは右手側の天国のような絵に浸る
そして左手側は、地獄のような絵
その間にも、一枚の絵があった。
地獄のような絵は絵で、とてもリアリティがあった。
そして、私はハッとした。
両者の絵の上には、神様が描かれていた。
天国の神様は穏やかな表情で、手を開いている。
一方で、地獄の神様は、「Ouch!アウチ!!」というように
片手で顔を覆い、しまったというような表情だった。
以前、パーーーーっと観ただけではわからなかったというか見落としていた。地獄の神様の表情を観た時、胸の中にドンっと、音がしたようだった。
神様、しまったって感じなのね。
フレデリックは、戦いとかそういうことを表現したのかな...と思ったりもした。そして、この作品に驚いたのは、フレデリックの88年の人生において、
1893-1918、なんと25年の月日を費やして描かれた作品であることを、知った時。
あなたもわたしも、結果を急いでしまいがちではなかろうか。
何年経っても、人のこころを揺さぶるものは、変わらない=人は人なのだろうと感じたのだった。
大原美術館の後は、隣にある、エルグレコへ。
美術館に飾られていた、エルグレコの『受胎告知』にも魅せられ、数日前の早朝に、犬をこちらの店先に座らせ写真を撮っていた風景を思い出し、私も一歩、足を運んでみたくなり、お邪魔した。
素敵な時間をありがとう。
その後、『今が、もみじ紅葉の見頃!!』の看板にこころ揺れ、大原邸の中に入り、その庭園を拝見させてもらい、わたしは倉敷を後にした。
ちゃっかり、パシャりして頂いちゃいました。
次は、佐野美術館で感じたことを、お伝えしたいと思う。
*他に気になりメモした作品
・児島虎次郎ー里の水車、朝顔