宙組「フライングサパ 」考察(ラストシーンの暗示/ニーチェの永劫回帰)
先日、久しぶりに映画館に行きました。
お目当てはクリストファー・ノーラン監督の「TENET」。
最初から最後まで頭を悩ませながら鑑賞しましたが、めちゃくちゃ面白い作品だったので、まだ見ていない方は是非コレから見ることをオススメします。
「TENET」を見ていて宙組フライングサパ をチョコチョコ思い出したので今日はサパの考察をもう一つ書いてみようと思います。
本日考察するのは「上田久美子が用意したラストの意味」について。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
世界はループし、繰り返される
「フライングサパ」の冒頭、そして挨拶後のフィナーレで組子全員がダンスするのがこのダンス↓
さすが上田久美子先生。一筋縄では終わらせてくれなかった。
全てが解決して華やかなフィナーレもようやく終わりだと思った矢先に踊り始めるのがこの不穏すぎるダンス。
肩をすくめ、何かを見つめ、拒まずに受け入れるしかないようなこの振り付けはまるで人生を表しているようだ。
蜃気楼のように揺れる”正義”
その中で悩み、後退りし、それでも前に進む。
人はまた新しい”正義”に導かれ惹かれていく。
そしてまた同じように悩み、後退りし、それでも前に進む。
人によってこのダンスの解釈は色々あると思うが、私はこの不穏なダンスからそんな人間の姿を感じとった。
このダンスがオープニングとフィナーレで繰り返し踊る意味。
それは単なる印象付でだけではなく、上田久美子先生なりの「世界のループ(歴史は繰り返される)」の暗示ではないだろうか?
用意されたのは「おかしな」結末
私はフライングサパの終盤で非常に違和感を感じた。
率直に言ってしまえば「オイオイ、上田久美子はどうしたいんだ?」そんな感じだ。
フライングサパ の結末はこうだ。
ポルンカに住む人類は二手に別れる。
あるグループは困難に直面してみんなで団結(一つになるために)サーシャ(真風)と共にフライングサパ に乗って冒険に出る。
もう一方のグループはイエレナを筆頭に自由で新しい開かれた社会をポルンカで築くために残留する。
私はなぜ上田久美子先生がこの結末を選んだのかがいまいちよくわからない。
というのも、その直前まで「ミンナ(全人類の意識を統合するシステム)」実行に対して激昂し、反対していたサーシャ(真風)が何故みんなでまとまって歩めるように「皆が協力して立ち向かわなければ生き残れないような困難(パンフレットより抜粋」に向かおうとするのかがわからない。
結局のところ、イエレナの選んだ「みんなで自由で開かれた社会を築く」というのも、サーシャの「困難にあえて立ち向かってみんなで協力して生きていく」というのも、「みんなが一つになることを」目的とした過程であり、この話の結末は”人類は「みんなで一つになる」ことでしか生きていくしかない”ということになってしまう。
つまり、どちらにせよポルンカの人々は『ミンナ(グループに属する)』であることを選んだ。というのがこの物語の結末なのだ。
結局のところ、上田久美子先生はこの作品で何を我々観客に伝えたかったのだろうか?
ニーチェの「永劫回帰論」と「ニヒリズム」
私は上田久美子先生が用意したラストの展開を見て、絶望した。
多くの宝塚ファンが「ラストはハッピーエンドでよかった!」と思っていたかもしれない中で1人で絶望的な目で舞台を見ていたなんてなんだか笑ってしまう。
でもサーシャとイエレナの選んだ道の先にある未来をパッと予想すると、どうしても舞台冒頭の時と同じような冷たい未来しか見えない。
サーシャのフライングサパ 号は人類が地球を捨ててポルンカに移住したときのこと(船内での争い)を思い出すし、イエレナの社会づくりは総統01が悩みに悩んだ過程(総統01もイエレナの目指した社会を作りたかっただろう)の一つに過ぎないように思える。
このように虚無的に「フライングサパ 」という作品を捉えると、著名な哲学者であるニーチェの「永劫回帰」論が頭をめぐる。
つまり、フライングサパ の結末もある意味では当然であり、それは決してハッピーエンドではなく終わりなき始まりの暗示だったのかもしれない。
しかし、だからと言ってフライングサパ の結末に対して絶望することはない。
ニーチェはこの永劫回帰から逃れるのではなく、永劫回帰する世界そのものを、認めてポジティブに捉えることを訴求してきた。
もはやネガティブのどん底から這い上がるような精神だが私はこの精神↓がとても好きだ。
世間は簡単に移ろっていく。
今日の正義は明日の罪かもしれないし、今日の罪は明日には正義と騒がれているかもしれない。
そんな世の中でも自分が自分として生きていくためには、自分の意思を常に確かめ行動していくことが大切である。それが例え同じ結果を招く(円環の一部に取り込まれる)ことになったとしても。。
前回のnoteの続きでもあるが、自分自身が素数であり続けられるためにも私たちは常に「自分が何者であるか」を問い続けなければいけないのかもしれない。
それがフライングサパ に託されたメッセージなのだと私は受け取った。
余談:ダンスの振り付け講師について
このなんとも不穏なダンスの振り付けを担当したのは前田清実先生。
前田先生は宝塚歌劇団の振り付け指導に携わったことのある先生で、主な作品として
などが挙げられる。
どちらの作品も共同制作ではあるが、先生独特の振り付けはこの2作品でも光っている。
意味があるようで意味がない。
意味がないようで意味がある。
そんな振り付けを何度も見せてくれたのがこの前田先生。
今後も宝塚と是非タッグを組んで欲しい。