宙組「フライングサパ 」考察(素数と偶然について)
今日は先日観劇してきた宙組「フライングサパ」の考察を書きます。
いろいろ気になることのある公演でしたが、まずは今作で重要な登場人物のナンバリングと素数、偶然について書きます。
あくまで素人の考察(しかもまだ考察途中)ですので楽しむ程度に見てください。
*以下ネタバレ注意*
登場人物たちのナンバリング
フライングサパ と素数について考えるなら、まずは登場人物たちのナンバリングについて整理しておきたい。
*以下公演パンフレット参照
01 総統
02 ミレナ
98 科学大臣ペレルマン
101 スポークスパーソン
777 アンカーウーマン
2053 タルコフ
8324 記者
9033 タオカ①
24902 犯罪者2
28875 犯罪者1
30011 オバク
30015 ズーピン
30070 ハッピー(タオカ記憶漂白後②)
30071 将軍(タオカ記憶漂白後③)
総統の01から3万台まで識別番号を振り分けられているポルンカの人々。
この星では素数であることはある特別な意味を持つらしい。
お芝居の中でミレナがオバクに識別番号を尋ね、彼の番号を聞いた時に「素数なのね」と呟いている。
試しに素数の識別番号を持つ登場人物を黒太文字書いてみたが、かなり興味深い結果となった。
ご覧いただければ分かる通り、主要人物は大体素数を振られている。
なぜ素数を振られた人とそうでない人がいるのか?
これは偶然なのか?
私なりに考えてみた。
サパにおける「素数」の意味と「素数」本来の意味
素数は「1と自分自身以外に約数を持たない数」。
「この世に2つしか約数を持たない(1と自分自身)数」これが素数の本来の意味である。
素数出現の規則性は今まで多くの研究者が研究してきた課題だが未だにその規則性も見つかっていない。つまり現時点では必然的に素数が現れるのではなく、(人間サイドから見たら)偶然、素数が目の前に現れているというのが現状だ。
以上の素数の基本を踏まえてフライングサパ における素数の意味を考察した結果、私は次のような考えにたどり着いた。
フライングサパにおける「素数」は孤独の象徴であり、他人と自分を画する個性(自我)の象徴ではないか。
素数を持つ人物は何度記憶を漂白されても自分自身の性格や嗜好を完全に忘れていない。
記憶を漂白されたオバク(元サーシャ)は戦闘モードになると体が勝手に動くかのように素早い身のこなしで敵を倒せる。
記憶を漂白されたミレナ(孤児)は義理の父の犯した殺人の罪に責任を感じて自分を傷付けずにはいられない。
タルコフは記憶を漂白されたことはないものの、地球への愛を忘れていないしなんだかんだ我が強い。
最終的に将軍となったタオカは何度記憶を消されてもミレナを「好みのタイプ」と言い続ける(ハッピーの時もミレナの外見がタイプだと言っていた)
このように、素数を持つ人物は何かしらの芯を自分の中に持っており、何度記憶を漂白されようとその気質というか個性を持ち続けている。
そして素数であるからこそ、「みんな」の一部になることに拒否反応を示し孤独になる。
しかし、そんな孤独な素数たちも10場(フライングサパ で出航する場面)ではこんな会話をしている。
ミレナ(おでこをオバクと突き合わせて)「私が今考えていること、わかる?」
オバク「わからない」
ミレナ「こうするだけで気持ちが分かり合えばいいのに・・でも話し合えばわかりあるかもしれない」
*全部ニュアンスです*
総統01は「素数(国や言語が異なるもの同士)」での話し合いに絶望して「ミンナ」というプログラムを作り出した。
ミレナとオバクは総統が放棄した「話し合う」という旧式な方法を素数たちで試みようとする。
1と自分でしか理解できない(割り切れない)はずの素数たちが話し合って折り合いをつけようとする様子は素数の規則性を探す姿と重なった。
上田久美子先生は素数の未知の規則性の探究と人類が個性を生かしながら共存していく方法の模索を重ねて宇宙に思いを馳せていたのかもしれない。
と私は考察した。
スポークスパーソンに101が振られた理由
さて、ここまで読んでくださった読者の方はおそらくモヤモヤしているに違いない。
「スポークスパーソンはなぜ素数(101)なんだ?」と。
スポークスパーソンほど総統01に忠実な僕は他にいない。
彼の個を押し殺してプログラムされたような喋り方、模範的な振る舞いはまさに偶数を関するにふさわしいような気もする。
なぜ彼は素数を振られているのか?
私は以下の二つの可能性を考えた。
・スポークスパーソンは記憶漂白された後の人物である=記憶漂白される前は現在のような機械的な人物ではなかった
・4つ子素数との関連
一つ目は「スポークスパーソンも実は記憶漂白されていた説」。
話の筋から言ってこれはかなり有力な説だと思う。
しかし、私はあえてこんな意見も言ってみたい。
「彼は記憶を漂白されてない。そのままの彼(自我があの状態)だからこそ素数のナンバーが与えられている」
と。
スポークスパーソンは総統01の声として支えていたが、総統が亡くなり新しい民主主義国家が気づかれることになった時、ミレナに対して「私はどうすればいいのでしょうか?」と困り顔で聞く。それに対してミレナの隣にいたイエレナが「そんなこと自分で考えなさい!」と返答している。
そして彼は困り顔で悩みながら舞台の裏に消えていく。
このシーンを見た時に「いつの時代も自分の意見を持てずに流される人はいるよな〜」と思った。意外にこの直感が正しかったのではないかと今思う。
つまり、スポークスパーソンが素数を与えられていたのは彼は記憶を漂白されない地の状態で人に流されやすい性格で、スポークスパーソンという役割も地で行っていたから。
彼のような性格(人の意見に流されやすい。自分の意見を持たない)の人間もまた個性を持っている人間であり、素数である。
という考えのもと、彼に素数の識別番号を振ったのかもしれない。
もう一つは4つ子素数との関連だ。
4つ子素数は名前の通り、4つの素数の組のことを指す。
この素数は(p, p + 2, p + 6, p + 8)と一定の規則が判明している。
なぜ今回この素数の組合わせに関心を持ったかというとスポークスパーソンは複数いるのではないか?と勝手な考察があったからである笑
しどりゅーくんの無駄のなさすぎる動きからどうしてもクローンの存在を考えずにはいられなかった(SF映画ではお決まりなパターンなのでついつい疑ってしまう)
例えばパノプティコンでの治療。
毎日必ず数名は治療されていそうな雰囲気だったが、果たしてスポークスパーソ101だけで対処できるのだろうか?あの時代のテクノロジーがどれだけ進んでいるのか不明だが、彼の多忙ぶりを見ていると彼のクローンがあと3人くらいいてもおかしくない。
紫藤りゅうという役者は1人しかいないので、四人同時に彼女を登場させるのは難しかっただけで本当はスポークスパーソンという人物は他にもいたのではないか?と妄想してしまう。
フライングサパ における偶然
もう一つの疑問。
それはフライングサパ における「偶然」の意味。
ミレナが何度も「偶然って何かしら?」と問いかける。
先述した通り、素数出現の規則性については現在のところ明確にされていない。つまり、「偶然見つけた」形で素数の出現が確認されている。
この「素数の規則性が発見されていないこと」と、ミレナの「偶然って何かしら?」という問いかけを考えると面白い。
素数は人間の目から見れば「偶然」出てきたかのように見える。
しかしそれは別の視点で見ればもしかしたら「偶然ではなく必然(規則性がある)」なのかもしれない。
つまり、ミレナの「偶然って何かしら?」という問いかけには「私たちの見ている「偶然」は本当に偶然なのかしら?それとも私たちには分からないだけで「必然」なのかしら?」という意味合いが含まれているのかもしれない。
バールーフ・デ・スピノザの「エチカ」における人間観がここで採用されている可能性は非常に高い。彼も「人間が偶然と思っていることのほとんどが必然である」(=人間に自由意志はない。そして偶然もない)と説いている。
精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む
一部引用:「エチカ」倫理学 上
詳しくは是非本著を読んで欲しい。上田久美子先生も彼の思想に触れてこのような疑問をミレナに言わせたのかもしれない。
*スピノザの人間の自由意志否定論は決して人間を見下したものではありません。この方↓がとてもわかりやすくまとめてくださっているので、もしお時間がある方はご覧ください。
フライングサパ の考察はまだまだ続く・・
以上でフライングサパ の素数と偶然に関する考察は一旦終了。
まだまだ気になるもの部分があるのでDVDを購入してからも考察を続けていくと思う。
*考察したいこと*
オリジナルとは何か?
個体を識別するものは意識・思考以外に何があるか?
なぜ上田久美子はあの結末(人類が2手に分かれる)を用意したのか?過ちは繰り返されるのではないか?
『みんな』という言葉がもつ力(制圧)と全人類の意識データ保管場所である「ミンナ」について
キキ精神科医の役割(なぜノアはポルンカにきたのか?なぜ精神科医になったのか?)
何故お父さんは自分にミンナをダウンロードしなかったのか?(ミレナが抵抗すると分かっていてもなぜ自分にダウンロードしなかったのか?)
イエレナの強迫観念はなぜあそこまで強いのか
ズーピンが心変わりの理由