no.38 2018.6 やかまし村のジェンダー
旧ずぶ邸復興活動一周年記念「やかまし村の種まき祭」終了しました。
庭がにぎやかになりました。訪れてくださった方々が、それぞれに種や苗をくださって、みんなで植えました。朝顔、あじさい、ローリエ、フウセンカズラ、綿花……メインの綿花は、収穫して人形を作って人形劇をする、わずかでも循環型の社会にするという野望があります。
今回の人形劇の脚本はリンドグレーン女史作「やかまし村の子どもたち」を自分たちに重ね合わせて考えました。
原作は、女の子三人(主人公を含む)と男の子三人の計六人しかこどもがいない、たった三軒の村のお話で、大人になった目で読むと(こどものときに読んでいなかったのですが)思うのは、女の子対男の子の構図になっているということ。「おとこのきょうだいはやっかいなものです」という章からはじまるように、やんちゃな二人の兄にあきれている女の子リーサのぼやきが基調になっています。八歳のお誕生日にはようやくやっかいな兄たちとお別れして自分の部屋をプレゼントしてもらい、快適な生活を送り始めます。
本をぱっと開いて劇の前座で朗読した章は、まちから都会の女の子とお母さんがやってきて、リーサたち(女の子たち)とともだちになるお話でしたが、兄たち(男の子たち)は話しかけたいけど話しかけられないので、ちょっと遠くで竹馬にのって気をひいてみたり、いろいろがんばって話しかけるシーンがありました。
これは大人社会の縮図だ。八歳にして「女」の自負が目覚めているのは、小さいときから兄弟を見ていて反省や反発が多い証拠だと思う。どんなおとなも、こどもがそのまま大きくなって多少やっていることが「本物っぽく」なっているだけで、中身は変わらない気がする。
女性差別やセクハラは結局、「恋」の拙い表現なのだと思う。みんなモテたい。それはそうなのだが、表現の方法が力任せでセンスがない、無意識でヴァリエーションがないことが万死に値する問題なのだ。ださい。女の自負が強くなるのも、男を意識するあまりの「恋」の表れだと思います。
「恋」は男女間に限らず、ひととひとの間に多かれ少なかれ生じる「差違」への羨望、ないものねだりの感情だ。「投影」もする。するなと言われてもすぐしてしまうので、どうやって落ち着かせるかというと、二つ(二人)きりにせず、たくさんパッチワークして、適材適所の役割分担をして全体を円満にするという、木を見ながらも森を見る作戦だ。
人形劇では「家族」の描き方に悩みまし
たが、ずぶ邸ではそういう区別もいらないような気がしたので
「おばあさん」しか登場させないことにしました。一人一屋敷制。現実と同じように、架空のお話における家族にもいろんなヴァリエーションがあるのがいいですね。
マッチョな資本主義社会の恩恵を受けて生きているのですが、そういう社会からひとまずお別れして遊べるリーサの部屋のような場所が旧ずぶ邸です。
説明や評価はいらないし、年齢や職業や、「女」とか「母」とかいう言葉もいらない。そういうことをいったん忘れて、ただ「人間」として楽しく、うふふと集まることのできる場所、休憩所でありたいと思います。そしてまた現実に帰って、気持ちも軽やかに、慣習のごっこ遊びをしたらいい。どっちが夢か現実かよく分かりませんが。
ミーサ やかまし みさき~「あかまつ」から「やかまし」に改名しました~
種まきに向けて意気込むメンバー
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2015年の開校から毎月一回書き始めたずぶの学校新聞の第一期。冊子の方はなくなりましたのでオンラインマガジンにしました。全50本です。転機…
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