世代間常識の違いによって生まれるすれ違いを見ると結構辛いものがある。
世代間常識の傾向というものは必ずあり、それについての配慮がお互いに必要なのではないかと私は思っている。
上の世代に対する常識感覚の違いを下の世代の私たちに合わせろ、時代に合っていない、おかしい、と主張するのは結局、異なる世代への理解が足りないという点では自らの世代間の常識そのままを突き立ててくる上の世代の人間と変わらないのではないかと。
意見や主張は強く押さえつけようとすればするほど反発力というものは高まるばかりで、相互理解などあり得ない、となってしまう。そして、結局はそのコミュニティでの多数派が正義となってしまうのだ。
それは世の中の真理でもあるが、インターネット上ではSNSによって、小さなコミュニティ上で発生しているがために、反発するコミュニティ同士が争った後、コミュニティがより過激で強固な考えを持ってしまう傾向があり、そんなものをインターネット老人として長年見ていると、人間、なんだかなあ、進歩してないよなあ、と思ってしまう
古く、悪しき慣習。理解できない意見などを潰したい気持ちはわからないでもない。わからないでもないが、人間の円満なコミュニケーションには歩み寄りが大事だ。
そして、相手がどうやって生きてきたのか、どういう人間なのかを想像する想像力も。
しかし実際は100人いれば100通りの環境があり、個性がある。
そんな中で人間の性格を仮にでも把握するのは難しい。そもそも、自分の性格の把握さえ、普通はなかなか出来ないものだ。
そこで、私たちは無意識下にしろ、意識下にしろ、自分に関わる人間を様々な箱にカテゴライズしていく。
性別・職業・仕草・学歴・年齢…………
箱は一つではない。そして、経験によってそれは変質していくものだ。
カテゴライズ、つまり偏見などに結びつく見方だが、私はこれは己を守り、生きていくためには絶対に必要不可欠なものだと思っていて、生きるために最も大事なことの一つだと確信している。
多かれ少なかれ、これがなければ、危険を遠ざけることはできないし、幸福を手に入れることもできないだろう。
想像して、お互いに譲歩できて、OKラインがどこかということを、個人単位でも建設的に決められたらどんなに良いかと思う。
という実現不可能な理想論とインターネット嘆きでした。おわ。
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