0→1。
「登場人物が動き出す」とか「音が勝手に鳴り始める」とか聞いたことないだろうか。あれの仕組みはそんなに難しいことじゃない。例えばわかりやすいほうで「物語」なら、小説にしろ漫画にしろ映画にしろ、その登場人物自体を描き進めることで、筆者自身の中に「登場人物A」が構築されていく。よく「0→1が難しい、それこそがクリエイティヴ!」みたいな言葉を見かけるが、もちろん「0→1」も無限に在る素材の組み合わせのパターンを決定しているに過ぎない。無から発想することは(先人たちを見る限り頭がだいぶ変にならないと)できない。
「0→1」は物語や登場人物、「世界」の方向を定める──有限化の方針を決める作業。一度「世界」が立ち上がってしまえば、例えば画なら、コア(核)となる肩とか腰が描ければ、全身あっという間に描き上げられてしまったりするそうだ。それは連想、連関の力に他ならない。自分で立ち上げた「世界の一端(象徴的なその辺の雑草でもいいし匂いでもいい。イメージが掴めるなにか)」によって次の道筋が照射され(有限化され)、さらに次、次、と作業は毎日続く。これを文字でやるか線や色でやるか音でやるか。
「0→1」に拘る必要はあんまりない。最終的に「どこからつくったか」「どうやってつくったか」わからないものが他人を心底震わせる。
クラシック音楽にとって(そしておそらく多くの娯楽にとって)結果より経緯の精神は結構大事だ。どれだけその作品の中に留まったか。内部で作品を浴びながら時間を過ごしたか。どうポイントを絞ってうまく要約できたか、ではない。もちろんそれも必要なんだけど。
「クラシック音楽人口1%未満」はもちろん現代の演奏家のあらゆる意味での力不足だと思う。現代のクラシック音楽のイメージは先代の人たちによるところが大きいが、当代の僕たちだって、次へどんな風にパスできるかわかったもんじゃない。