周回遅れの『水星の魔女』感想

 今さら見終えたわけですよ。世間で一番盛り上がってる頃に見なかったので、完全に周回遅れで。
 とはいえ、見てしまったからには思ったこともそれなりにあるので、まぁ書き留めておくか……という感じで、思いつくままつらつらと。
 ご興味のある方だけどうぞー。



 全体の印象として、「間が悪かったよなぁ」ってのはありましたな。
 ∀、00、鉄血とかもだけど、「国家同士が大規模な戦場を作ってやる戦争」っていう感覚が平成終盤から令和にかけて薄らいでて、あんまり実感湧かなくなってたんですよな。なのでアニメの中で戦争を描くにしても、テロとか内戦、PMC(民間軍事会社)とか、戦力を持った企業とか、そういうところにクローズアップする流れがずっと来ててさ。鉄血のオルフェンズなんかは主人公たちが会社やってるっていうのが、見てて「マジか、そういう描かれ方になってくるのか」って驚いた部分もあったんですが。
 『水星の魔女』もそういう流れの中で、株式会社ガンダムだったと思うんだよね。
 ところがほら、そこにウクライナ戦争が起こっちゃったんで。
 大国が、領土獲得のために、陣取り合戦みたいな戦争をやるなんて、21世紀に入ってからあんまり目にしなかった、なんかもう20世紀の亡霊みたいな戦争なんですよな。急に時代背景がそういう感じになっちゃったんで、『水星の魔女』の空気感とズレちゃった感じはあったのかなと思いました。
 そういうのって、案外作品を読み解く感覚にも影響するんですよね。本作の公開があと2年早かったら、もうちょっと作中世界への没入感は高まってたんじゃないかと思う。


 一方、現代の問題としてヴィヴィッドなのは、やっぱり差別の問題なんですよな。21世紀になってからのガンダムは、この差別問題と向き合うというのがテーマ的に避けられなくなりつつある。
 初代やZにも、宇宙と地球の格差問題っていうのはあって(とはいえ、UCでは地球にいるのがエリートで宇宙移民したスペースノイドの方が苦しかったのに、本作では地球の方が貧しくて宇宙が優越してるという逆転が起こってるのは面白いですね)、たとえばブラン・ブルタークがスペースノイドを「宇宙人」と呼ぶような描写はあるんですけど、差別問題みたいなのにはあんまり深入りして来なかった。
 それが一気に表面化したのがSEEDで、ナチュラルとコーディネーターの感情的反目は、単に社会構造的な問題というのを超えて、相手側を大量破壊兵器で殲滅しちゃおうってレベルで高まってたんですよな。SEED放映当時はその過激な描写がリアリティ無いって言われがちだったんだけど、トランプ大統領就任以降のアメリカの「分断」具合とかを見せられた現在の視点からだと、あの描写も違和感あんまり無くなりつつあって、なんかSEEDに時代が追いついて来たな感はありましたな(このタイミングでSEED劇場版が来たの、まるで時代が追いつくのを待ってたみたいだなぁと思ったりして)。
 富野監督も「こりゃあ一度差別問題をちゃんとやっとかなアカン」と思ったのかどうか、Gレコで「クンタラ」という差別階級を出してメインテーマにしたり。すっかりこの差別の問題はガンダムシリーズのメインテーマの一つになった感があります。

 『水星の魔女』は特に、このテーマを意欲的な方法であぶり出そうとした感触がありましたね。物語の序盤で、我々が日常で遭遇してもおかしくないような、つまらないミクロレベルの「いじめ」の原因として描かれてたアーシアンとスペーシアンの感情的対立・差別問題が、第二期に入って学園崩壊の大惨事の原因となったノレア・デュノクの暴走と直接的につながっているわけです。
 戦争の原因になるような差別って一部の過激派だけの話じゃなくて、私たちが日常生活で抱くちょっとした「蔑み」「排他的感情」の延長線上、地続きにあるんだぜ、っていうことを描いたんだなぁと私は解釈しました。むしろ、本作が学園を舞台にしたガンダムであることの一番の意図は、この「地続き感」を出すためなんじゃないかとさえ思ってます。お話の規模の接続として、学園と武力衝突ってやっぱりちょっとアンバランスだし、そういうテーマ的な狙いを透かして見ないと、なんでこういう設定で物語を組んだのか不分明になる気がしましたし。
 20話くらいまでの『水星の魔女』は、SEED以降のガンダムシリーズが積み上げてきたテーマをより深めるという意味で、けっこう面白い試みをしてたように感じますね。


 そしてもう一つ。非富野ガンダムで、始めてガンダムに関わる監督や作者が、巨大になり過ぎてしまったガンダムブランドをどう飲み下すか、みたいな「ガンダムの脱構築」みたいな側面も多分にあった気がしますね……w でも、実はそこに一番感動したっていうところもあって。

 本作で私が一番印象に残ったの、20話で、両手をすり傷だらけにして瓦礫の下の生徒を助けようとしてたスレッタだったんです。
 エアリアルとエリクトに決別されて、ガンダムに乗れないただの1生徒の立場に戻ってしまったという、ガンダム主人公としてはまったく良いとこ無しな状態なんだけど、そんな中で改めて、自分の身一つで出来ることをやろうとするところに、逆にすごい主人公性を感じたんですよね。スレッタはその後も、避難した生徒たちに毛布配ったりトマト配ったり、「今の自分にできること」を探して実行していくキャラになってて。エアリアルに乗って強大な力を行使してた前半の彼女より、ずっと主体的な主人公になれてた気がする。

 誰の解釈だったかな。日本のロボットアニメにおいて、ロボットは主人公の身体の拡張だって話をしてて。
 普通、ロボットという言葉は原義的には自律的に動く機械労働力のことなんだけど、日本でだけ、人が乗り込む巨大人型兵器を「ロボット」と呼ぶようになった。それも、親の世代から受け継いだ、主人公の力を拡大する「身体の延長」としての巨大な機械であると。
 その強大な力は確かに、主人公を主人公たらしめる力なんだけど。けどさ、逆に強大な力を行使できてしまうから、見失ってしまうこともあると思うんだよね。
 それこそ、00のソレスタル・ビーイングみたいに、ガンダムという破格の強大な力があるからこそ「世界から戦争を根絶する」みたいな途方もない活動に手を伸ばすこともできるわけだよね。それは確かに凄いことでもあるけど、一面で怖いことでもある。自分という個人は世界数十億人の中のたった一人に過ぎないのに、まるで世界全体を背負えるかのような巨大なものと錯覚して、自分を肥大化させてしまう可能性もあるわけだよね。
 テレビで放映された戦争を見て、心を痛めて、自分の手でそれを解決できれば良いのにと願う。その願いは優しいけれど、等身大の自分にできる事から大きくはみ出た願いを抱いてしまってもいる。
『デスノート』の夜神月みたいにさ、世界を自分が思う理想の姿にしようっていうのは驕りでもあるわけでな。最近の作品だと『リコリス・リコイル』の真島もそういうヤツで、千束にたしなめられてたわけなんだけど(彼女の「世界を好みの形に変えてる間に、おじいさんになっちゃうぞ」って言い回し、すっごい好き)。

 序盤のスレッタは、確かにめちゃくちゃ強いんだけど、でも主体性は感じなかったよね。プロスペラという親から与えてもらった力と意図から逃れられない。ガンダムエアリアルが強ければ強いほど、スレッタという主人公が主体性を発揮する機会がやってこない。
 いちどガンダムと決別して、等身大の、身一つの自分っていう立場になったことで、ようやくスレッタが自分の頭で考えて動き始めた、そこが良かったと思うんですよな。手を傷だらけにして、人を救うために瓦礫の山をどかそうとしてた。ガンダムという巨大な力があれば瓦礫なんかもっと簡単にどかせたかも知れない、けどそうじゃないんだよな。自分の手で、痛みをこらえて、ままならない非力さで現実に向き合ってさ、そういう形でしか手に入らない世界との向き合い方っていうのがあると思うの。

 それでまた、そういうスレッタの姿が、「明らかに巨大すぎるガンダムブランドで作品づくりをすることになった、非冨野ガンダム作品の監督や製作者たち」ともちょっと被る気がするw ガンダムシリーズ新作っていうだけで、注目されるのも話題になるのも確約されてるようなものだしな。等身大で一からオリジナル作品をやってたら、そんなレベルに上がるまでにどれほど苦労することか!w
 めちゃ強のエアリアルに、エリクトのサポートのお陰でノーリスクで乗り続けられたスレッタが、一度ガンダムを降りる展開って、そういう「巨大すぎるガンダムの力を一回キャンセルして、自分たちの物語として仕切りなおす」みたいな読み方もできちゃいそうだよなーとか思ったり。実際、復帰後のスレッタが乗るキャリバーンには機体名に「ガンダム」という名前がついてないわけだしな。

 
 スレッタが親の呪縛を破るのと、ガンダムシリーズがガンダムの呪縛を破ることをオーバーラップさせようとしてた、そんな部分はあるのかなーと思って見てました。

 Twitterで、スーパーの食品担当の人がスナック菓子エアリアルのトマト味を大量に仕入れたら、ちょうどそのタイミングで第一期ラストの手の平バーンのシーンが来てしまって「仕入れるタイミングを間違えた……」って言ってるのが回ってきて爆笑してしまったというのがありましたがw
 ∀ガンダムの序盤にもあったよね、ディアナ暗殺未遂があって、容疑者が逃げるのをとっさにロランが∀で捕まえようとするんだけど逃げられちゃって。ハリ―に「わざと逃がしたのか?」って疑われて「潰しちゃったらまずいでしょ」みたいに言うの。
 例のシーンを直接言うとグロすぎるので、隠語で「トマト潰れたシーン」って言ってる人たちもいたけどさ。示唆的だよね。人間もトマトも同じで、潰すのは簡単なんだ。
 一方で、生きているものを、潰さずに育てるのって、なんて難しいんだろうって。

 ガンダムはどんなにカッコよくデザインされていても兵器なので、壊すことに特化している。
 ガンダムがシリーズとして続く限り、壊すことが宿命づけられている。
 でも本当はそうじゃなくて、命を未来につなぐためにガンダムを使いたいなって、そういう模索はされてきたんですよな。初代ガンダムで脱出に使われたコアファイター、宇宙に投げ出されたセシリーを探すために使われたF91、汚れたシーツを洗濯するために使われた∀ガンダム。∀は家畜の牛を運搬するとかにも使われたりしてて、そういう願いが特に託されたガンダムでしたよね。
 ガンダムが医療技術に転用されていくっていうのは、ロボットアクション活劇として見れば地味だけど、そういう「ガンダムに託された願い」を展開させた、とても美しい帰着点の一つだったと思います。
 ガンダムにかけられた呪縛を解く、意欲的な結末だったかなと。


 非冨野ガンダムってさ、シリーズの一つとして「ガンダムらしさ」を出すことと、過去作とかぶらないよう毛色を変えて「ガンダムのセオリーを外す」ことを両方求められる、「ガンダムっぽくないことをしつつガンダム作品にする」っていう禅問答みたいな難問に取り組まされる宿命を負ってるわけですけれどもw
 めちゃくちゃプレッシャーあるだろうし大変なんだろうけど、でもその重圧と難問に立ち向かって悪戦苦闘する中から、新しい試みも出て来るんで、個人的にはこれからも応援したいですね。
 うん、楽しかったです。遅くなっちゃったけど、見れて良かったよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?