自分へのアクセス
人間の成長は、成長したい欲ともいえます。
「 自分探し 」
「 自己啓発 」など
識字率99%の非常に恵まれた、私達日本人は、特にこの向上欲が盛んです。
金持ちが贅沢品をインスタにupする様に、訳の解らないカタカナを、さも私は賢い・神秘的な力を持ってます的に使うのも、そういう欲の現れです。
( 私も使ってますw )
まあ私達は、常にどっか不安なんでしょう。
人間なんて、そういうもんです。
片岡鶴太郎という芸能人がいます。
若い頃、コンプレックスの塊みたいな人でした。
才能はあるが、天才ほどで無かった。
ステージを次々と変えていきます。
お笑い→俳優→ボクシング→書画→ヨガ
自分を変えようと、ずっと自己へアクセスを行ってる。
多分、等身大の自分より理想が高いのでしょう。
長く生きてると、以前に低評価だったメディアの人に、親近感といいましょうか好感を持つ様になりました。
片岡鶴太郎に対しても、面白く観察してます。
私自身が低くなったんでしょうねw
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自己へアクセスは、贅沢な行為とも云えます。
過去にそれを許されたのは、一部の人達だけでした。
「 言論の自由 」とか未だに言う人がいますが
「 言論弾圧の自由 」さえ手に入れて、まだ贅沢したいのか~と。
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私達は何処にいるのでしょうか?
基点( スタート地点 )が解らないと、迷います。
私も何十年と、心・精神にアクセスしてきました。
「 我思う故に我あり 」
創る才能の自覚は5歳くらいで、思考に目覚めたのは12歳くらいです。
思考し始めてすぐ小学5年
「 我思う故に我有り 」に気付きました。
それを大人に嬉しくて話すと・・・
「 それは、我思う故に我ありだよ 」
と言われ、既に発見されてた概念だと解って
とてもガッカリしました。
( こういった経験、皆さんもよくあるでしょう )
能力を伸ばす上で、基点は重要です。
「 等身大の自分 」
これを正確に見定めないと、記録は伸びないからです。
日本人はどうも、これが曖昧です。
元々が曖昧模糊・抽象的な民族です。
情報化社会は、それを駆使する必要があれば、幸いですが。
普通の人達にとっては、より惑う環境になります。
思考の部分に、倫理能力があります。
事象の中で、整合性( 善悪・合理・間違いに気づく )を判断する能力です。
これも実は才能ですが、この能力に乏しくても、日本では医者や法律家になれます。
揺るぎない社会は、柱として支える大木が必要です。
しかし大木に群がる私達は、その様な強靭さを持っていません。
強くないのに、強いと勘違いしてしまった私達。
そこから歪みが生まれます。
食べ「過ぎ」抱え込み「過ぎ」無理し「過ぎ」
働き「過ぎ」愛を求め「過ぎ」過度に期待し「過ぎ」
過ぎの前に「なさ」も入れていいかも?
心の悩み相談室を始めたのですが、救おうとは思っていません。
「 あれ?世の中おかしくね? 」
「 なんでこれ信じてた? 」
当たり前が実は違う。
と、少し疑問を持つ様なる。
自分で自分を修正する癖を付けて貰う。
私の決まり文句の一つは
「 いつの時代も、どの世界も 」
「 平和ボケ 」と最近は聞かなくなった気がします。
沢山の人が一気に死なない状態が続くと、それはそれで歪んでいきます。
歪みの中で、歪んで無い存在は、歪んでると判断されます。
その圧力で、せっかくの輝きが曇ります。
その歪みは、地震のプレートと一緒である時に爆発もします。
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もう少し才能のお話をします。
「 どうやったら才能を引き出せるか? 」
これはプロの世界では通用しません。
しかし、精神の苦しみには、充分に作用できます。
基礎としての才能は、大概の人は眠らせたままなので。
で、芸術から精神にシフトして見ると、心理カウンセリングや心療内科は、まだまだ小さいジャンルで、それに関わる人は少ないです。
( 多ければいいか?は、また別ですが )
才能を当てはめますと、ほら、100人に一人とか言うでしょ。
全体数が多くないと、才能ある心理のプロは現れません。
整形外科の高須院長みたいに、平気で自分を人体実験する才能。
昔、ムツゴロウさんと人気だった、動物専門家( まだ存命ですが )は、平気で動物の糞尿を口に入れてましたね。
心の専門家という業種自体が、まだまだ未成熟かもしれません。
よって、才能あるスーパードクターとか、滅多にいません。
数十年前、心理学が次代の思想、そのホープとして期待されました。
ある程度の役割は果たしたと思います。
しかし、少しもう古い学問になってきています。
日本人は何かと新しいもん好きです。
悩みを抱える人は、心に囚われるのが当たり前です。
しかし、それに関わる人には、心だけでなく様々な力を得る必要があります。
ではでは、りんかい先生でした。