クリーピー 偽りの隣人(2016)
サイコサスペンス、サイコスリラーものですが、どこか普通ではありません。フィルムのルック、色味、セットやロケーション、芝居まで、黒沢清という人の演出力が冴え渡り、作品として異様な完成度を見せていると思います。
不自然な映画
この映画は「そんな事あり得ない」「普通そんなことしない」「普通そんなこと言わない」という点が多々あります。そういった点を指摘して、感情移入できないとか(むしろこれに感情移入する人は危険な人かもしれません)不出来な映画だと言うことはあまり建設的とは言えません。この映画は完全に演出主導の作品だからです。このプロットを黒沢清以外の監督が映像化したら、きっとよくあるサイコスリラーものになっていたと思います。しかし、結果はそうなっていない。この映画はあり得ないほど不気味な仕上がりになっていて、それが脚本のうまさというより(香川照之の演技はかなり比重が高いと言えますが)演出の巧さによって成立していると思えるのです。セリフや展開はその演出に迎合していると言っていい。黒沢清という監督の持つ演出力がこれでもかというほど全てのシーンに詰め込まれていて、その演出ひとつひとつを見ていくと大変面白い映画になっていると思うのです。逆に言うと、あくまで「演出」であって「説明」でないところがこの作品のわかりにくさになってしまっているのだと思います。
黒い部分
この映画は全体的に黒い色(それと緑色)がかなり強調されています。西島秀俊演じる主人公の高倉はほとんどのシーンで黒いスーツを着ています。対する西野も黒い服ばかり。西野の玄関口も、廊下の奥も、この映画では影になる部分は常に真っ暗で人物がそこを通るたびに“暗闇に飲み込まれてしまう”ような印象を与えます。また、初登場時、西野は暗闇からヌッと現れます。(よく見るとその服はものすごく暗い色の迷彩柄です)どんな時に人物の顔が黒くなるのか、というのに注目してみるのも面白いです。
お気に入りのシーン
中盤に主人公夫婦の飼い犬であるマックスが犬小屋からいなくなり、竹内結子演じる庸子が探しにいくと、公園に香川照之演じる西野と一緒にいた、と言うシーンがあります。ここで私はびっくりしました。「犬が洗脳されてしまった!」と感じたからです。恐ろしい演出力です。初めて会った時から、西野は夫婦が飼っている犬に興味を示します。庸子が犬を飼っているけど、躾けているから大丈夫だと言うと、西野は「犬を躾けるんですか?いいと思いますよ。そういうの」と素っ頓狂でありながら、とても不気味な返答をします。その後、実際に飼い犬であるマックスに会った時、西野はマックスに吠えられ、怯えた素振りを見せます。「ああ、犬には本当に悪い人が分かるんだな」と私は思いました。人は騙せても動物は騙せないぞ、と。それがどうでしょう。中盤のこのシーンでマックスは西野の手にくだってしまうのです。「そんな!犬まで虜にする術を持ってるなんて」と言う絶望。犬が洗脳されるシーンを初めて見ました。それが本当に衝撃でした。ベンチに座る西野とマックスの間に置いてある犬の遊具がこちらに向かってウインクしているのも間抜けで(こういうのは普通排除したくなるものですが、利用してしまう演出力が凄いです)、恐ろしいシーンになっていると思います。このしばらく後に出てくる、変な握手も良い。よくあんなの思いつくな、と感心しきりです。
庸子の絶叫
ラストシーンで高倉の妻、庸子は高倉に抱きしめられ絶叫します。「怖かった」という気持ちの解放「安堵」というふうにも見えます。しかし、私はそうではないと思っています。ここでの演技演出はとても細かく、それぞれに意味がありそうです。私の結論では庸子には夫の顔が“西野と同じ顔に見えた“のではないかと思っています。顔を見て驚く庸子、躊躇なく無表情で抱きしめようとする高倉、それを一瞬拒否しようとする庸子、抱きしめられ高倉の背中を掻きむしる庸子。高倉の背中を、西野の背中に想像の中で入れ替えてみてください。庸子の絶叫は「安堵」では無いし、その方が演技がしっくりハマるという気がしてきます。そして、笑顔(に見える)を浮かべた西野の顔(画面の右隅では真っ黒な落ち葉が風で舞う)で物語は終わりを迎えます。
見ていてゾクゾクするような瞬間が次々と訪れ、それが映画以外では経験できないような感覚ばかりで嬉しくなってしまいます。映画はお話を追う、というだけでなく、色や光、音や構図など、複合的な表現によって成り立っています。それらによってもたらされる不思議な感覚こそが、映画の代替不可能な面白さだと思うのです。
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