女子大小路三部作 隘路隘路隘路
「あいろ、あいろ、あいろ」と三回唱えて…
1.ガム
無人の駐車場にはだれが車を止めてどこへ行くのだろう。そういう人もこの道にガムだけ吐いて行くのだろうか。道で踏まれながら彼はずっと見て、聞きながら、思っていた。
この道の地面には黒い点々が無数についている。タールをこぼした痕だとあなたが何となく決めつけていたそれらは全部吐き捨てられたガムだ。触ったりなめたりわけでもないし誰かに確認したこともないが、あれは全部ガムだ。そうに決まってる。わたしと約束してくれ、今日からはそう覚えておくことを。あの点々は確かにガムだったと。
ここにはガムが汚した町があったことを、あなたは忘れないでくれ。
この道にはガムを噛む人が多い。少し歩けばいろんな国から来た、ガムを噛む人たちがうろうろして、「おっぱい、お兄さんおっぱいどうですか」と言いながら近づいてくる。彼ら彼女らの多くは日本より暖かい国から来ているが、冬の寒い日でも夜になると出てきて、勤勉に働いたり、おしゃべりしたりし、ポケットに手を突っ込みガムを噛んで、道に吐くのだ。
広小路通から東急ホテルの角のあたりを曲がって入ったこの辺りは、東急ホテルが中京女子大学だったころの名残で今でも女子大小路と呼ばれている。変な形のビルが多い。景気のいいころに建て増し建て増しで無計画に上に伸ばしたせいで凸凹で、上の階に行くほど部屋が少ない。どのビルにもぎっしりとスナックが入っていたが、ニスの剥げた重い木のドアを開けると、中は今ではハンバーガー屋や沖縄料理屋、スペイン料理屋、ネパールカレー屋などさまざまだ。しかしたいていどこへ行っても大きなカウンターを持て余している。少しするとカウンターだけを残して空き家になる。
更地になったビルの跡には新しい建物は立たずたいてい無人の駐車場になる。並んだビルが歯抜けのように一つ抜けると、両隣のビルの見えていなかった側が、もともと見える予定のなかった壁が、痛々しくむき出しになる。細くひびの入ったざらざらのコンクリートが日差しと風にさらされて、見ているだけでひりひりする。ビルの日蔭には、わざわざ日蔭に作ったような店ばかりあるので、ビルが無くなるとビルに挟まれた隘路ごと無くなる。
味のついたお菓子だったのに地面のよごれになってしまった今、彼はすごくすごく幸せだった。ちっぽけなガムとしてたった一人の動物の口中を楽しませるだけの、とるに足らない存在だった彼は今この汚い女子大小路で、道の汚れとして、「汚い女子大小路」の「汚さ」のために一役買っている。彼はその仕事がもたらす充実感でいつも胸がいっぱいだった。もはやカラスさえ彼をついばまない。猫ですら跨がずに踏みつける。そう彼は道の汚れ。
「おれは汚れだ。この女子大小路を汚すことに全身で尽くしているのだ。」
池田公園の脇の歩道に付いている彼から見える範囲でも、ビルは次々に消え、路地はどんどん開けていく。
彼は心配する。そこのビルが消えてガムを噛む者もいなくなりカラスが全部ほかの餌場を求めて飛び去り、誰もいない駐車場でおれは何の為の汚れなのか。いつかそうなる。そうなったらおれは、ここを汚くしていることにしらけてしまうだろうと。その前に彼は祈ることにした。毎朝、道いっぱいのゴミの中からカラスたちがそれぞれのお気に入りを巣に持ち帰ったあとの、静かな時間に彼は祈った。
「日蔭が消えてガムを噛む人が一人も居なくなる前に、おれはかすれて消えることにした。でもお願いだ、覚えていてくれ。この汚い町と、汚い町を汚していたガムのことを。」
2.誕生日
今日は僕の誕生日だ。26歳になる。仕事が終わったらすぐ6時半から、最近行くようになったバーを貸切にして、夜よく遊ぶ友人や会社の人に祝ってもらうことになっている。
ビールと、ビールが飲めない僕のためにマイヤーズを飲み放題にしてもらって、ケンタッキーを持ち込んで飲む。先輩とよく行くキャバレーからお気に入りの女の子も一人来てくれる。
もう26歳になってしまう誕生日だからそのくらいしなければ暗い気持ちになる。今年の誕生日は金曜日だから、夜のうちに死んでしまってもほかの平日に比べたら迷惑は少ない。安心して騒ごう。
僕の仕事は今日も少ない。今の部署に移してもらってから一年半。Wikipediaも読みつくしてしまった。だから会社の大きなパソコンで今日のパーティのあいさつを書く。速いプリンターからいい紙に打ち出す。
「本日はご多忙にもかかわらずお集まり頂き、ご丁寧にもこのような席を設けていただき、お心遣いうれしく感謝申し上げます。昇格して間もなくまだまだ未熟ですので、どうかこれからもお力添えをよろしくお願いいたします。此度の昇格は上司による推薦と皆さんの支えあってのことです」
これは渾身のジョークだ。同期入社の中で僕だけが副主任に昇進できなかったということを踏まえているので、パーティに来る身内は絶対に笑ってくれる。
「今日はみなさん来てくれて本当にありがとうございます。また、今日が花の金曜日にもかかわらず、快くこのお店をお貸しいただいてありがとうございます。6月26日が再来年ぐらいから国民の祝日になるように一層努力します。
ここにいるみなさんと、惜しくも予定が合わず来れなかった両親に改めてお礼申し上げます。とくに、僕が平和で楽しく23歳から26歳まで生きてこられたのは本当にみなさんのおかげです。僕のような奴といつも遊んでくださって本当にありがとうございます。あと永野さん。今日になってすぐに電話くれた永野さんありがとう。僕は今年もまた一段と老け込んでしまうことと思いますがどうか見捨てないでください。
さて繰り返しになりますが花の金曜日です。今夜は永遠に続きます。始まりにここで、アムリタをたくさんいただきましょう。乾杯。」
今日も最後の夜が始まる。今日こそ最後でありますように。
3.カラス
日曜の朝、女子大小路は彼らの活気で満たされる。汚い飲み屋がまばらに詰まったビルの群れから躊躇なく放り出された、食べなかったものと食べられないもの、壊れたもの、
使わなくなったものを、歩道いっぱいに広げるのがカラスたちの仕事だ。
いつもなら忌々しい青い車が全部まとめて持って行ってしまうそれらが、日曜の朝だけは選び放題でそこにある。
ばらばらに散らかしたおいしそうなものやきれいなもの、いい匂いのするもの、趣味で
集めているものを取り合う。必要なもの、いらないけどほしいもの、どれも捨てがたい。
月曜の朝、女子大小路は僕らの溜息で満たされる。
蹴飛ばしたいものと踏みたくないものでいっぱいの道をつま先で歩いて、僕らはみんなうんざりしている。
そこを歩いて行ってとにかく時間までに自分の席に座ること僕たちの仕事だ。
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