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さみしさなのかわからないが

前後関係とか因果が一切なく独立したさみしさみたいなものが最近ずっとあるような気がする。「さみしさ」っていう言葉が適切なのかは分からんのだけどさみしさとしか言いようがない。じゃあ何がほしいとかどうしたいとかそういうことではないし、そもそも解決したいとも思ってない。ただ単にさみしい。

さみしいからこそ自分なのだと思う。まったくさみしさがなくなってしまったら多分、いま感じているのとは真逆の心細さで身体が潰れて消えてしまうと思う。自分であるということの証拠はこの一塊のさみしさだけで、これに掴まっていなければ自分かどうかわからないというか、自分である必要がない。

さみしさ、たまに忘れることもあるけど、さみしさが帰ってきたときにこそ安心する。

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