今年も貝は
干潮が16時だから14時過ぎぐらいに着けばいいと思って、着いたら「受付終了」になっていた。駐車場には普段いないような観光バスが三台も停まっていて大盛況である。
どうゆうこっちゃと思って受付のおばさんに聞くと、15時の閉場だから、今から入っても1時間ちょっとしかない。それでも入るなら1人1400円もらわなければならない。いいのか。と言う。
干潟にはいっぱいの人が貝を探してつくばって蠢いている。拾い終わって受付でもらったネットをガサッとブラ下げて引き上げて行く人がいる。どこも不作で干潟を開かぬところが増えて来たが、やはりここには今年も貝は沢山いるようだ。
ネットの中身は均一な大きさのアサリで充たされている。ちょうど、味噌汁にするのにいいような。スーパーに売ってあっても恥ずかしくないような均一な貝群。そう、まるでスーパーに売ってあるような。
やはり、撒いているのか。
例えば朝、1トンの貝を撒いたとしよう。そして10時に干潟を開いて、1400円のネットは飛ぶように売れて行く。均一な大きさのアサリがきっかりとそれを満たして干潟から出て行く。受付に居れば、自ずから干潟にどれだけの貝が残っているのか見えてしまうのだ。だからこそおばさんはこれから入場させることを渋るのだ。
いや、ずっとわかっていたことなのだ。しかし、干潟に生きている新鮮な貝を拾うという最高のレジャー。血湧き肉躍る狩り。縄文時代から我らの本能を刺激し続ける蠱惑的な遊び。それが潮干狩りなのだという共同幻想を、潮干狩りをするものとさせる者はよそよそしく協力しあい、守らなければならないのだ。
貝を撒いているとは絶対に言えない。でもこれから1400円も払って拾いに行ったら確実に落胆することになることをおばさんは知っている。おばさんは1400円でネットを売っているのではない。もちろん貝を売っているのでもない。それを満たす興奮を売っているのだ。
俺は小一時間もあればスーパーで2000円ぐらいのアサリを拾う自信がある。しかし、貝がいればの話だ。
「もう撒いた分が無くなりそうですか。」
なんて無粋なことを言うつもりはないし、おばさんの良心を無下にすることもない。また来ると伝える。
「今度は早い時間に来なあかんよ。」
いや、その言い方はもうギリギリだろう。
今度は開場すぐに来ようと思う。
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