ヘナナイスハズカム
毎年、初めて海を見た日には今年初めての海だなあと思う。それは、子どものころはたいてい夏で、大人になってからは夏を過ぎても海を見ていない年も多かったが、今年は近年ではかなり早い初めての海だった。
逗子海岸は鎌倉の一つ向こうの駅で降りて少し歩いたところにある。
砂浜の堤防をくぐる小さなトンネルの向こうに不意に現れるので、「あ海」と言ってしまった。甘木さんとしばらく海だねと言い合う。海だね。今年初めてだ。だいぶ早いね。犬がいるね。ヨットの帆が見えるね。海の匂いは海が見えてから急にしてきた。
海にはたくさんの帆を立ててウインドサーフィンの舟が浮かんでいた。水着の人は砂浜でパラソルを立てて座っていた。日差しは充分に夏のようだが、ウェットスーツがないとまだ冷たいのだろう。勇み足で素肌を水に浸けた若いアメリカ人が悲鳴をあげながらもはしゃいでいた。たくさんの犬たちは砂浜を走るのに夢中だ。行き交い、すれ違い、吠えて、宥められる。
この海を背景に砂浜に立てられた大きなスクリーンで映画を観る。海の向こうで昔に書かれた、12才の男の子が4人で同じぐらいの歳の子どもの死体を探しに行く物語だ。
外で映画を観るのは好きだ。12才ぐらいの頃、夏休みに友だちと連れだってホームセンターの広い屋上のアニメ映画の上映会を観に行ったことを思い出す。子どもだけで夜に家を出て一緒に居られるのはとても特別なことでそれが楽しかった。その頃の僕らには夜はなかった。夜が来ると皆それぞれ居るべきところへ帰る。いつもは日が暮れて5時の音楽が市役所のスピーカーから流れたら僕らの時間は終わる。
そんなことを思い出しながら、足元に落ちている珍しいごみを拾いながら、これじゃないねと捨てながら、これはいいねとポケットに仕舞ったりしているうちに、海岸沿いの列に並んでもぎりのテントまでもうすぐのところまで来た。振り返ると行列の端はもう見えなかった。
テントで手に入場の印を捺してもらい中に入る。バーや洒落た雑貨屋などが立ち並び小さなメリーゴーランドまである。どの屋台もアメリカの西海岸のような趣で、少しくすんだ色とりどりの看板を一つ一つ見ているだけで楽しくなる。入口から一歩入ったらまるで小さな異国の町のような空間がさっき見ていた海と同じ岸辺にあり、映画祭が終わると全部嘘だったように消えてしまうのだ。興奮してあちこち歩く。昼の日の高いうちからビールを飲んだりするのが当たり前の国をうろうろする。お祭りのための大掛かりな嘘の場所が今だけは本当にここにあるのだ。
少しだけ太陽が濃くなっていてひどく腹が減っていたのでおそいおひるにした。洒落たサンドイッチと変わったから揚げをそれぞれそう言って瓶ビールを一本誂えてもやいで飲みつつ食べる。人心地ついて周りを見ると、いつもは一緒に遊ばないような人ばかり居る。今はこうして同じ映画を観るために集まったが、子どものときに彼らともしも同じクラスでも友だちにはならなかっただろう。同じ班でも掃除のときぐらいしか口をきかなかったような人たちが陽気に酒を飲み、レコードを扱き、大きな声で呼び合っている。
上映までまだ時間があるので、少し出ることにした。逗子の駅から海岸へ歩いて来る途中で気になったものを戻って見る。
途中にあった橋の上で立ち止まり、汽水域ならではの魚たちを見る。来るときには水面の照り返しが強い中、ふぐを1匹だけ見つけたが、今は潮位が少し上がって日陰になっていて錦鯉が何匹も泳いでいた。
来た時には気が付かなかったが「Umibe cafe」という喫茶店の隣に「うみべ歯科室」という歯医者があった。看板には一角鯨の絵がある。カフェで甘いものを食べさせて虫歯にして歯科へ誘導する算段なのじゃないかと話し合った。
民家の軒先にあったクッキーの自販機は、来たときのままで正面に停められた車に阻まれていた。
よく見たかった商店街まで来て、あちこち検分する。商店街の街灯には「逗子銀座」とあった。全国に銀座はあるが、しらすを生で食べさせる居酒屋や、店先に座れる焼き鳥屋や、時代がかったような純喫茶や、行列のできそうなパン屋などがあり、ここもなかなかの銀座だ。
逗子銀座のメインの通りを向こうまで行って戻って来る途中に路地があり、奥に看板が出ていて「古本」と何かもう少し書いてあるのが見える。路地を進むと「古本イサド ととら堂」と書いてあり店先の棚に古い宝島が並んでいる。店内にどんな本があるか見てみたいがここは只の古本屋ではなく「古本イサド」だ。
「イサド」が何かもわからずに中に入っても大丈夫なものか少し悩む。僕ももう子どもではない。一見の古本屋に入るぐらいのことで躊躇したりはしない。入り口に大きな字で「医学書専門」と書いてあったりしない限りは。今回の問題は「イサド」だ。「イサド」が絡んで事は一筋縄では行かなくなった。つまりこの家は古本を商ってはいるが、「イサド」を求めて来た客に「イサド」を提供する。そういう空間でもあるのだ。
したり顔で店内の棚の本を閲しているとしばらくして、この客はいきなり入って来て本ばかりみているがもしかして、家が古本屋だとでも思っていやしないか。「古本イサド」とど丁寧に店先に書いてあるのがわからなかったのか。いや待てよ。こいつもしかしたら「イサド」が何かもわからずに本なんか読んでやがるんじゃないのか。よく見れば大きな鞄を背負っていていかにもお上りさんではないか。そういえば今日は海岸の方で祭りのようなことをやっていたな。ははんさてはこいつ祭りに来たはいいもののこのおのぼりさん丸出しの格好で会場に入ってイケてる連中に囲まれてすぐに居た堪れなくなり這々の体で逃げ出し、しかし山奥からこのイケてるビーチまで来て手ぶらで帰るのはいかにも残念なので少し人がまばらなこの商店街まで戻って何か入れそうな家はないかとくんくんになって歩いているうちに通りからここの看板の「古本」の文字を見つけて、ああ良かった俺はイケてるビーチから少し離れたイケてる古本屋で本を買って帰るイケてる旅行者だ、この程度の古本屋恐るるに足らん、ここでイケてる本を買って急いで田舎に帰って自慢の本棚に並べて芋や山菜や虫を並べてそれでいつもの焼酎でも飲んで早く寝ようそれ、くーんっ、て這入ってきた芋野郎に違いない早く追い出そ。となって常連客と店主に「イサド」で小突き回されたりしないだろうか。「イサド」はそんなことに使ってはいけない。
逡巡しているうちに甘木さんが「中も見てみようか」と先に入ってくれるようなので、イサドが怖いものでないようなら僕も後から続くことにした。ドアを開けると中は思ったよりも広くて、本棚が迷路のように並んでいていかにも面白そうなので一緒に入って後手で閉める。
通路は狭いのだが足元に未整理の本が積んであったりせずに歩きやすい。漫画の棚を一通り調べる。つげ義春がよく揃っていたので少し読む。漫画の棚の横にぶら下げてある籠に見覚えのある豆本が束になって1冊200円で売ってあった。手に取るとやはりそうだ祖父からもらった「歌の手本」と同じものだ。昔はこういう冊子が料理屋などで宴会の客向けに配られていたという。祖父が「鮨幸」で貰ったというものと同じ内容で、表紙の色と裏についている店の名前が違う。北海道の割烹や秋田の炉端焼きなど各地の知らない店の名前を見た。よく見ると種類も豊富で祖父が見せてくれなかった下品な替え歌の載った本もある。
各々好きな棚の前でずっと探している本が置いていないか見たり気になる表紙のものを手に取ったりしてそろそろと歩く。奥の方へ行くと広いスペースがあってそこで絵の展示をしていた。この空間がイサドの部分だということにする。もし間違いでもイサドで小突き回されたりはしないだろう。とても居心地のいい古本イサドだ。
探していた滝田ゆうの本が買えた。カバーをかけてもらったら案の定イケてるカバーだったので鞄の外から見えるポケットに挟んで外へ出た。小一時間ほど経っていたがまだまだ日差しは強く、少しどこかでコーヒーか何か飲もうということになった。
駅で降りてすぐのところに目星をつけていた喫茶店があるので商店街を抜けて駅の方まで歩く。ビルの表に出ている看板を見て2階に上がる。「レストラン・カフェバーARIA」はちょうどよく喫茶のサービスをしている時間で窓際に並んだ二人掛けだけが空いていた。おなじ映画祭から抜けてきた人もいただろう。そこに案内されてそれぞれアイスコーヒーに僕はパンナコッタを甘木さんはチョコレートケーキを注文した。
久しぶりに長い時間日に当たって、よく歩いたこともあり少し眠い。心地よい眠気がある。冷たいアイスコーヒーを飲みながら駅を眺める。逗子駅の上にあるビルには何が入っているのだろう。事務所かなあ。窓のふちにアールが付いていて可愛い。あ、屋上に人が出た。どこどこ。ほらそこの、ドアのとこ。ほんとだ居るわ。あ、入ってっちゃった。さっき買った本を読む。滝田ゆうの本は前から探していて本当は漫画の『寺島町奇譚』を探していたが、この本にも挿絵がふんだんについており楽しい。文は調子のいい古めかしい語り口で読みづらい。ベーゴマについて読む。それは金物がない時分は陶器で作られていてぶつけ合うと勝った方も負けた方も無事では済まないなどと書いてあり、知らない話は面白い。
しばらくそうして漫然と過ごす。アイスコーヒーは無くならないように飲んでいるので氷が溶けてもうだいぶ薄いがまだおいしい。パンナコッタはもう無い。チョコレートケーキを一口くれるかなと思って見る。くれるというが悪い気がして断る。店員が来て後ろを通って僕の横の壁の下に設えてある箱を開ける。そこに豆が入ってたんだね。上に鞄を置かなくてよかった。外はまだ明るいが、刻一刻と映画の時間が近づいていた。
映画を見ずに帰れる道理はない。なぜなら僕らは鎌倉ではなくここ、逗子に、映画祭を楽しみに来たイケてる二人だから。大倉山の甘木さんの家へ行って甘木さんのお父さんの甘木さんとお母さんの甘木さんに、映画祭の話をしなければいけないから。映画祭に行ったはいいもののイケてる連中にびびって
「もう帰ろう。パンナコッタもケーキもおいしかったし、早く帰ってイサドって何か調べよう。」
などと僕が言ったと聞いたら甘木さんの甘木さんと甘木さんはどう思うか、この僕を。幸せな家族の新築のさわやかな家への闖入者のことを。塩を、ありったけ撒かれるに違いない。塩が足りなくなったらすぐ近くの海で海水を汲んできて、乾かす時間ももったいない、海水に漬けられるに違いない。追い出されて僕は地元の山で虫や自然薯や筍を掘って食べ、ましらに作らせた酒を飲んでほたえるに違いない。そうに決まっている。そう俺はましらの王。ましら王。今ぐらいの新緑の季節にはミドリマシラオーという壮名を鳴らして山を行ったり来たり、じゃらじゃら歩く、イケてるましら。
「ねえそこのしんくんが気にしてた屋台でなんか買って行こう。ましらって何?」
逡巡している間に、来た時に逗子駅から降りてすぐに僕が近づいて行った屋台がある。すぐ目の前まで来ていた。焼きトウモロコシ、ベビーカステラ、そして鳥の皮焼き。
「そこで鳥皮買って映画祭で瓶ビールでも買って砂浜で飲もう。」
そんなことをしたらやつらの思う壺ぼくらの奴壺ではないか。
「みてんあれ、あれあれ、なんか田舎もんが面妖なもん食べたはるわ。」
「ああ、鳥の皮やな。」
「鳥の皮?」
「そう、くにゅくにゅして気色悪いやろ?鳥の皮ってあんなんなっとるんやで。」
「うちあないなもんよう食べんわああ恐わ。」
「山の方ではな、あないな阿呆なましらみたいなもんがようけ住んどってな、鶏なんか育てちゃ焼いたりして食っとるんや。鶏には捨てるとこがないとか言って皮も食べれば内臓も食べる。内臓のな、雌鶏のお腹の、卵つくったはる部分のまだ卵にならんうちの黄色いつぶつぶをな、あいつらは重畳やー、千両、千両、ってぬかして食いよるんや。ましらに作らせた酒で猿酒っていう出来損ないの葡萄酒みたいなん飲んでな。食いよるんや。」
「ああ怖。薄っ気味悪。」
「まあ、下手物やな。」
「いややわもうはよ向こう行ってピクルスの綺麗なん食べよ。」
「ほやほや。」
「ねえ猿酒って何?」
甘木さんの声がして我に返る。イケてる女性たちが何人か連れで鳥の皮を購めていた。
「一つ500円なんだけどサービスで大盛にしとくね。キムチ好き?そこに置いてあるキムチとビビンバはサービスだから好きなだけ詰めてってね。」
大ぶりのプラスチックパックにキャベツの千切りを敷き詰めてその上にぎゅうぎゅうに鶏の皮を置いたやつを渡された女の子たちがその上にさらに旨そうな色の朝鮮漬けやナムルを載せて、さっきまで殺風景だったくにゅくにゅの茶色い大地に花が咲く。
「すいません、一つください。」
風が涼しくなって空気が青っぽくなって空にオレンジが混ざっていた。歩いて海岸へ戻る。甘木さんはリュックからスカジャンを取り出して着た。いつだったか、あげたやつだ。よく似合ってる。あいかわらずクッキーは買えなかったし橋の上からはもう一匹も魚は見つけられなかった。海辺歯科室まで歩いてきて、向こうの方から海で遊んでいる人たちのかけた音楽や歌う歌が聞こえてくる。映画祭の入口のテントにはもう列はなかった。中へ入るとさっきよりも人が多く声が高い。僕はビールを甘木さんは白ワインのサングリアを買って、また外に出た。
ミニーマウスのレジャーシートを敷いて座り鳥皮のパックを開ける。ビールの瓶を砂地に突き刺すと少し斜めになりながらも安定していて見た目がかっこいい。鳥皮がまだ温かくておいしい。風が涼しくて地面はまだ温かい。少し寝そべったら眠れそうだ。
地元の友人と行った日間賀島の海ではこんなことはなかった。外は暑く水中は浅くてぬるい。足元はぐにゃぐにゃで浜辺にはヤンキー。ヤンキーかヤンキーの子どもしかいない。夜になって星でも見ようと外に出たら、昼には居なかった別のタイプのヤンキーが車で乗り付け暗い浜辺で花火をやって騒いでいるが遠目にはかろうじて綺麗なのでヤンキーの花火でも見ようかと見ていたら強そうなヤンキーが何やら車から、細めの電柱ぐらいの大きな筒のようなものを運んでくる。まさかと思ったがやはりそうだあれも花火だ。打ち上げ花火かなあ。ホームセンターでは買えないよねあんなもん。どう見ても素人が遊びでやっていい大きさじゃなさそうだ。何尺玉というのだろうか。この距離で見てて大丈夫かと心配になったがもう火をつけている。ヤンキーはやることが早い。花火が横倒しになる。火の玉が真横に発射されて閃光が走り浜辺に嬌声が高鳴り爆発が覆い被さってヤンキーたちの鬨の声が上がる。星は消えた。携帯電話のカメラで撮影したビデオを後から見たら戦争のニュース映像のようだった。みんな海でこうやって遊ぶのか。島に警察はいないのか。
今日の海はあの悪い夢のような浜辺とは違う。バーベキューをしていたアメリカ人の一団が今度は踊ったりギターを弾いたり腰かけたドラム缶を叩いたりして音楽をしている。金髪の男の歌が上手い。歌手のようだ。大きな黒人の女性が踊りながら通りすがりの日本人を誘って巻き込んで輪が大きくなっていく。見ているだけならすごく心地よい。野良のものとは思えないような、饒舌で楽しませる音楽が目の前にある。2人前のおいしいおつまみとお酒がある。みんな海でこうやって遊んでるんだね。浜辺でお酒飲んでるだけで楽しい。犬もよく走るし。海が見えてるだけで楽しい。音楽もいいし。この距離なら絡まれないし。5月って海には早いと思ったけど浜辺でこうしてるにはちょうどいいね。音楽が止むと海の音が聞こえた。永遠にここで座っていられるなあと思っていた。しかしそろそろ映画が始まる。片付けて会場に戻る。甘木さんが少し何か歌っている。
「ヘナナイス、ふんふーん、ふふふーんふんふーん。」
「なにその歌?」
「映画の歌だよ。」
「ヘナナイス?」
「ヘナナイス。」
「最初“When the night”だからナイスとは言ってないよ。ヘンザナイ、ハズカーム。」
「ふーん…ヘナナイス、ふんふーん。」
「ヘナナイス。」
スクリーンの前にはもう敷物が敷き詰められており、僕らの入り込む余地はなかった。後ろの通路の壁沿いに立って見ようという意思の人々が並んでおりもうそこも満員になりそうだったので隙間に並んで立った。上映の時間が近づき、敷いてあった敷物のところへぞろぞろと人が戻ってくる。夜が来ている。屋台には豆電球がいくつも連なってキラキラと綺麗だ。人がさっきより静かに高揚しているのが何しろ近いからよく伝わる。ホームセンターの屋上の上映会とは規模が違うなと思う。でも思い出して、心臓がじわじわして痒いような。昔から楽しみにしていた時間が始まる。しかし終わる。
映画が終わればお祭りは終ってただの夜になる。僕はこの映画の結末を知っている。冒険のあと4人の少年は何となくだんだん疎遠になり会わなくなってしまうのだ。そして大人になった主人公が1人で訥々と3人の友人のその後を語り、映画は終わる。まるで人生で一番楽しいことは全部終わったかのように終わる。終わるなと思った。今も人生で一番楽しいのだ。終わるな。終わったとしてもそばに居ろ。12才の夏休みよりも今そう思う。だって楽しかったねでばらけたら困る。特別な夜じゃなくなってしまっても帰り道でクッキーを今度こそ買おう。買って夜道で2人で分けて食べよう。今ここにあるお祭りの国が嘘だったとばれてしまってもまた来年も来ればいい。お祭りも冒険も何もなくても。お願いだからそばに居ろ。
ブザーが長く鳴って映画が始まった。
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