共感と共鳴のつながり
SNSで自分の投稿にイイネを押してくれると単純に嬉しい。共感を得られたように思えるから。自分の主張に共感してもらうことで、確固たる自分自身が確立されているような気がするから。
でもそれを欲しているとそれだけになり共感を得られない物事に対して興味がなくなっていく。それは自分自身を確立してると言えるのだろうか。個性を主張していたつもりが結果的に大きな世間の流れに飲み込まれている気がする。
SNSをやらない、やるのが怖いという人達がいる。そんな人達は意識的にしろ無意識的にしろそういった自分でコントロール出来ない思いに乗ってしまうという感覚に違和感や恐怖を覚えているのかもしれない。
日本人と外国人がいて相互理解に努めるべきだとそこから話が進むことがあるけれど、確かにはみだしの人類学に書いてあるように、その前提自体が相互理解を本質的に行なっているのか疑問に思うというのは最もだと思った。
もちろん、何かを理解する時に分類分けは非常に重要だ。物事の理解が早い人はそういった分類分けを上手に使いこなしている感がある。だいたいのパターンとしてA B C‥とグループ分けして(僕は日本人だから、あ い う‥としようか。笑)分からないものはその他にして当てはめていくというのを良くやる。それが高尚なのか稚拙なのかという議論は置いておいて、非常に使いやすい基本的な考え方だ。でもその線引きである程度物事を理解した後に線引きのアップデートを行なってはいない気がする。そう。それで理解したとして終結している。情報が非常に多い現代に置いてそこを掘り下げる時間がないという言い訳が成り立つ。
あくまでの理解の入り口としてはじめの個人的に慣れ親しんだ線引きを行った後にはその分類の国境を更新しないといけない。或いはなくさないといけないのだ。
そして、その行為は他者との影響を受けて悪く言えば軸がブレブレのふらつきながらも共鳴していかないといけない。この両方がとても重要なことなのだ。
人は自分の考えを正しいと主張したがる。主張に対してのリスクが少ない場合には尚更だ。SNSにはその傾向が顕著に現れている。本質的に何が正しいのかをおなざりにして、誰かの主張に対して、辻褄の合う自分の言いたいことを選んで主張することが少なくない気がする。これはあまり話し合う意味がない気がする。結局の所そういった傾向がSNSでの議論を無意味なものにしているのだ。でもお互い対面して話をしたとして、その場合にはパワーバランスや背負っているものが邪魔をして議論にならないのではないかという考えも最もかもしれない。つまるところ、やはり話をする人達の意識が当たり前のことだけど重要なのだ。