おぢさんの旅
noteを久しぶりに書いています。
1発目には暗いテーマかもですが、最近いろんなテーマでちょこちょこ書いていて最初にまとまったので公開してみます。
よかったら読んでもらえると嬉しいです。
月1で炊き出しのボランティアに参加している。
路上で生活されている方や生活保護を受けている方が炊き出しを受け取りに来ていて、ボランティアの人達は参加する方を親しみを込めて”おぢさん”と呼んでいる。
おぢさんたちが机を畳むのを手伝ってくれたり、ボランティアが運営で困った時に助けてくれたりと、支援する側・支援される側という領域を超えて一緒に炊き出しイベントを作っている。
そんな雰囲気が好きで予定が合う日は参加させてもらっている。
先日、炊き出しを運営されている方からとても印象的なおぢさんのエピソードを聞いた。
そのおぢさんは今は神奈川で路上生活をしているが、もともと大阪で生活保護を受けて1人暮らしをしていたそう。
どうして屋根のある安全な場所で生活できていたのに大阪を離れたのか?と聞くと、そのおぢさんは、
「誰とも喋らず1人で生きるのが辛かった。だから大阪から歩いてここまで来た。」
と、答えたそうだ。
もちろん金銭的に余裕がなかったという理由もあるけど、人との繋がりは、人間を日本横断させるほどの大きな動機になるんだ。
目に見えなくて、身近すぎて、「人とのコミュニケーション」を普段当たり前のように感じてしまっているけれど、人が生きる上で欠かすことのできないとても尊い行為なのだと感じた。
旅の途中に宿には泊まることはできず、命を落とす可能性もある。
それでもおぢさんは歩くことを決めた。
人との繋がりを得るための、あまりにも孤独な旅路でおぢさんは何を思っていたんだろう。
私には想像できないほどの期待と不安を抱えて歩いていたんじゃないか。
おぢさん達にとって、炊き出しという場が食事をもらうだけの場所ではなく、人とのつながりを持てる場だと感じてくれているのかもしれない。
そう考えると、ボランティアの私にももっとできることがあるなと思う。
孤立・孤独問題といえば、少し前にYouTube Shortsを見ていたときに、
20代で孤独死した方の家を特殊清掃員が清掃する動画が流れてきた。
骨も跡形もなく溶けて大きなシミしか残っていないという、かなりショッキングな映像だった。
家族や地域のつながりが希薄になり、単身世帯が増えている現代において、もはや孤独は年代関係ないんだと衝撃を受けた。
本当に孤独な人に私が出会うこと難しい。
(難しいからこそ孤独なのだけれど。)
少なくとも私が出会うことができる人に対してはやれることはやりたい。
何気ない会話が大きな支えになっているかもしれない。
1人じゃないんだと感じてもらえているかもしれない。
完全な孤独ではなくとも無意識に抱えている小さな寂しさを軽くするくらいできるかもしれない。
おぢさんの孤独な旅の経験を通してそう考えるようになった。
ありがとうございます。おぢさん。
まずは地元の家族にもうちょっとLINEしよ。