無垢なる証人 ジウを世界に閉じ込めるのは誰だ

無垢なる証人のASD描写問題しかなかった。あまりにひどい。

知的障害は合併しやすいけれどもイコールではないのに、本来併発するものだというような専門家の言い方(知的障害であることを否定するわけではないですもちろん。ASDと知的障害はそもそも全く違うものだということが理解されないような言い方になることが問題です)、「自閉症の人は正直」という偏見、元々個人差がものすごく大きいのにそれにほとんど触れずサヴァンに近いジウがASDの代表のように語られてしまいそれに対するフォローもない。

ざっとあげるだけでこれだけある。細かいところでいったらきりがない。犬のところとか。クイズにパズルね、ジウ個人の好きなもののことは知ろうとしないんだね、とか。本当に見てるのがものすごく辛かった。ここまでとは思ってなかった。わたしも理解してるとも知識が足りているとも絶対いえないけど実地で十年以上ずっと障害のある人たちと一緒の時間を過ごしているので、さすがになにもいわないでいるのは無理だった…

特に、聴覚過敏だという描写を重ねておいて、更に「普通の世界」がASDには情報過多で、入ってくる色々なものの選別と調整が難しいんだってよくある説明映像流しておいて、それを最終的に「聞こえがいい」という流れにしてしまうのは相当問題だと思う。ああいう聞こえ方をする人がいないとはいわないけど、特殊だし、傾向としては(繰り返すけど個人差が本当に大きいから全てではない)視覚優位で聴覚での情報収集不得意なことが多いのに、ジウも明らかにそうだろうに、あれでは最後のインパクトが強すぎて「聞こえすぎる」の意味が全く違ってしまう。

物語にしても「ASDだからできない」と蔑まれてしまうジウを「ASDだからできる、能力がある」として上げるの、構造自体は全く変わってなくて2020でまだこれなのかまだ、と絶望的な気持ちにすらなった。ジウの行動を「笑う」演出になってるのも最悪だ。スノが「笑う」のはいい。現実の関わり合いの中で、笑いと共に自分とは違う相手のことを理解したり受け入れたりすること、されることはあるから。もちろんその中に差別意識がないかは気をつけなければいけないし笑ったことによる相手の受け止めかたにも注意しなければならないけど。だけど、観客の笑いを誘う演出にするのはなしでしょう。それは、なしだ。観客はジウの目の前にいないのに。

それでもって衝撃のラスト!!!!ジウの(なのかどうかも不明ではあるけど)選択を間違ってるとは思わない。当然インクルーシブであるべきだとは考えてるけど、金も人もシステムも整ってない(韓国のことは知らないけど日本においては少なくとも)状況だから、本人に一番楽で、生きやすい場所ならいまはまだその選択も必要だと思う。整えられてないことが苦しいけど。でもさ、映画で、あの選択をジウにさせるのは完全に現状肯定で、敗北でしょう。繰り返される「世界が違う」「世界から出られない」の台詞、胸糞悪かったけど、「別々の世界」を少なくとも繋ぐつもりでいるのかと思ったら結果が排除で隔離で、制作者たちは本気で「出られない」のだと思ってるんだなと思って泣きたかった。辛すぎる。

同じだよ。同じ世界にいる。見え方や感じ方が違うだけでそれはASDだろうがそうじゃなかろうが同じだよ。

ヒャンギ先生の演技がとてつもないだけに、苦しい。


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