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【ラオス取材こぼれ話③】おかみさんの手料理

海外を旅すると、思いもよらぬ窮地に陥ることも少なくありません。

南アフリカでナイフを突きつけられ金銭を強奪されたり、タイの僻地でバスから降ろされポツンと立往生したり、ドイツの深夜の鉄道駅でジャンキーの一団に囲まれたり……いろいろとありました。

幸いにも、親切な人たちが救いの手を差し伸べてくれたおかげで、今こうして平穏にnoteを書いています。

「命を脅かされた」といった派手な話ではありませんが、とりわけ胸に刻まれているのは、ラオス北部の山の上に位置する町、ポンサーリーで出会ったおかみさんのやさしさです。

ラオス最北の地へローカルボートで北上

今から8年前。ラオス北部の取材を担当した私は、メコン川に注ぐ支流・ナムウー川に身を寄せる町々を、ローカルなボートを乗り継ぎ、各町に1~2泊滞在しながら巡っていきました。その最北端の目的地が、ポンサーリー。

現在はナムウー川に中国資本のダムが建設され、航路が分断されてしまったため、ボートでポンサーリーをめざすことはできなくなっていますが、8年前の当時は地元の人たちと相乗りのスローボートに乗り込み、のどかな川の旅を楽しむことができました。

ナムウー川の中流から上流へと旅を進め、ラオス-ベトナムの往来の拠点でもあるムアンクアという町に投宿し、翌朝出発したのは朝8時過ぎ。細長い木造の頼りないスローボートに乗り込み、ナムウー川をつたってさらに北上を続け、ポンサーリーへの拠点・ハートサーという船着場をめざしました。

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6、7人の地元の人たちと荷物、バイクなどと一緒にボートに乗船。外国人旅行者は私ひとりです。船底に板を渡しただけの簡素な席に腰かけ、足を折りたたみ、身を寄せ合い、川の両岸にうっそうと茂る木々をぼんやり眺めながら、ひたすら北上です。

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やがて昼時になると、地元の人たちはそれぞれ携えたカオニャオ(ラオスの主食であるもち米)と鶏や豚の串焼きなどをボート上でほおばり始め、私はムアンクアの売店で買ったスナックを水で流し込みました。

私の前に座るおじさんは、おもむろにずた袋から空のコップを取り出し、ボート上から川の水をすくってゴクッゴクッと一気飲み。生命力の違いをまざまざと見せつけられました。

ソンテウに揺られ、険しい山道を走行

途中、川の岸辺でのトイレ休憩をはさみ(もちろんトイレはなく、草陰で用を足します)、ハートサーにたどり着いたのは14時頃。同じ体勢で長時間座っていたため、体はコリッコリです。

しかし、のんびりとリフレッシュしている間もありません。地元の人たちに誘導されるがまま、ポンサーリー行きのソンテオ(トラックの荷台を乗車スペースにした乗り合いバス)にバックパックとともに乗り込みました。

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ハートサーの船着場から、ポンサーリーまではソンテオでさらに1時間。ボートで到着した私たち6人に加え、わらわらと乗客が集まり、荷台は人と荷物ですし詰め状態。年季の入ったソンテオはグオォォォーンという荒いエンジン音をがなりたて、老体にムチ打って山岳地帯のデコボコとした未舗装の山道を走りました。

車体は上下左右にぐわんぐわんと揺れ続け、外の景色を楽しむ隙もありません。手すりにしがみつき、尻、腰、背、首、膝、肘……体中が硬直しっぱなしで、ひたすらたどり着くのを待つばかりの1時間。

ようやくポンサーリー郊外のバスターミナルでソンテオから降りたときには、体の節々がぎっしぎしで、バックパックを満足にかつげないほどふらっふらの状態。

そんな私を見て笑いながら、地元の人たちは軽やかにソンテオから飛び降り、バスターミナルに停めていたバイクに乗って三々五々に走り去っていきます。生命力の違いを再び見せつけられました。

さらにバスターミナルからSUV車のタクシーに乗って約5分。ようやく、ポンサーリーの中心部に到着し、ホテルにチェックインできたのは15時半頃です。簡素な部屋でバックパックを降ろし、ふーーーっと長い溜息を吐き切り、気持ちを切り替え、重い足にムチ打ち、ポンサーリーの町の取材をスタートさせました。

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陽が暮れ、食事にありつけず、疲労困憊

山に抱かれたポンサーリーの標高は約1400m。徒歩でめぐれるほどの小さな町ですが、山の町ですから坂道も多く、移動で疲れ果てた身には応えました。しかし、翌朝には次の町に出発しなければならないため、取材のチャンスは日が暮れるまでの約3時間。焦る気持ちを抑えながらも、歩く姿勢は自ずと前のめりになり、顔も険しさで歪んでいたことでしょう。

最後に丘の上に建つゲストハウスの取材を終え、18時頃にようやく全取材が完了。ほっとひと安心するやいなや、思い出したかのように疲れがドッと押し寄せてきました。昼にボート上でスナックを食べただけですから、空腹も最高潮です。

ようやく地に足をつけて食事を味わえることに喜ぶ私は、軽い足取りで町のメインストリート沿いにある食堂に向かいました。しかし、オフシーズンだったためか、3軒ある食堂がいずれも閉店状態。

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取材を終えた達成感と食事への期待から転げ落ち、一気に希望を失った私は、肩を落とせるだけ極限まで落とし、体を引きずるように宿泊するホテルに戻りました。

疲れ果て、食事にもありつけず、この世の終わりを迎えたような心境でホテルのドアを開けた私。すると、ドアが開く音を聞きつけたホテルのおかみさんが、カウンターの奥から顔を覗かせました。よれよれの日本人の姿にぎょっとされたと思います。言葉をかわすこともなく、おかみさんはジェスチャーで私を奥の部屋へいざなってくれました。

菩薩のようなおかみさんのやさしさ

何だろうと、のれんをかき分けてカウンターの奥に入ると、そこはおかみさん家族の憩いの場であるダイニングキッチン。丸テーブルに湯気のたった大皿料理が3つ、4つと並び、おかみさんと中学生くらいの息子さんが夕食をとっているところでした。その食卓の輪に私を迎え入れてくれたのです。

おかみさんが私のために料理とカオニャオを取り分けてくれて、心の底から「コープチャイ(ありがとう)」と手を合わせ、おかみさんの手料理をいただきました。うれしくてうれしくて、涙が出そうになりました。

鶏肉と野菜の炒め物、豚肉の煮物、野菜たっぷりのスープ。おかみさんの人柄が投影されたかのように、どれもやさしい味わいで、温かく、体中の疲れとささくれ立った心がじんわりと解きほぐれていきました。

そんな私の様子を菩薩のような微笑で見守るおかみさん。「うちのおかんの料理、そんなにうまいの?」といった感じで唖然と見つめる息子さん。

ラオスの各地を取材で訪れ、数々のおいしい料理に出会ってきましたが、この夜のおかみさんの手料理にはどれもかないません。

利他の精神が当たり前のように浸透するラオス。見ず知らずの外国人に対して、果たして自分はこんなことができるだろうか。人に対する自分のちっぽけさを省みるたびに、今もおかみさんのやさしい顔が心に浮かんできます。

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