Light Years(30) : シュトラウス
体育館での、フュージョン部の審査に向けた準備は着々と進んで行った。当日は1年生にも演奏してもらうという事になり、彼女たちが演奏している間、クレハとジュナ、マーコは機材の接続チェックを行う。ミチルとマヤは、審査に向けたセットリストについて体育館の隅で悩んでいた。
そこへ、竹内顧問が呑気な足取りでやって来た。
「おう、何やら大掛かりだな」
「あっ、先生。体育館の件、ありがとうございました」
ミチルとマヤは揃って頭を下げる。竹内顧問は、カレンダーを切って作ったメモ用紙の走り書きを示した。
「大原、審査は明日の放課後だ。審査員が揃って、そっちの準備が整い次第始める」
「はい」
「審査員の人数は7名。教頭と、清水美弥子先生も含めた各学科の先生数名と、立会人として俺も並ぶ」
「わかりました。椅子を7つ、と」
ミチルが手早くメモを取るさまを、何でもない事だが竹内顧問は感心したように見ていた。
「曲目はもう決めてるのか」
「それでいま、マヤと頭をひねってる所なんです。審査する先生達に、どう聴かせればいいのか…」
「なるほど」
顧問も一緒に胡座をかいて、3人でこれまで演奏してきたセットリストと、本来予定していた残り2日ぶんのセットリストを見る。
「先生、なんか意見ありますか」
「うーん」
竹内先生は、下を向いて唸ったあと口を開いた。
「そもそもな。俺たち40代からして、すでにフュージョンなんて聴いてる人間は少ないんだぞ」
「あ」
ミチルとマヤは、そういえば、という表情で互いを見た。
「俺が若い頃も、とっくにフュージョンブームは去ったあとだ。それどころか56歳の教頭だって、たぶん20歳くらいの頃はもう、ブームが去りかけてたんじゃないかな」
「な…なるほど」
ミチルは、自分の両親の事を思い出していた。両親は竹内顧問よりやや下の世代で、やはりフュージョンに関心があるというわけでもない。
「そう。要するに、ブームという視点で言えば、ほとんどの人間にとってフュージョンは未知のジャンルなんだ。お前たちが、ストリートライブで様々なジャンルをやったのは、フュージョンと色んな音楽に共通点がある事を、伝える効果があったと思う」
それは、自分たちでは気付かないポイントだった。何だかんだで顧問は、それなりに大人の観察眼を備えているのだった。
「だからな、たぶんお前たちが次にやらなきゃいけない事は、フュージョンという音楽の良さを伝える事じゃないかな」
その言葉に、ミチルとマヤはハッとさせられて目を見開いた。今までは、自分たちのアピールに必死だった。フュージョン部を標榜するからには、フュージョンという音楽の魅力を伝えなくてはならない。その当たり前の事に、いまさら気付かされたのだった。
「どうだ。俺の意見でも、いくらかは参考になったか」
「はい。ありがとうございます」
「そんならいい。後は、お前達で悔いがないようにやれ。何を企んでるのかは知らんがな」
ミチルたちがギクリとする言葉を最後に言って、竹内顧問は手を振ってその場を立ち去った。イケメンというわけでも、ナイスミドルというわけでもないが、この人なりに先生としてのカッコ良さを持った人物だな、と二人は思った。
「どう、ミチル。見えてきた?」
「うん」
「けど、もう時間はない。そういう時は」
二人は、互いの胸を指さして同時に言った。
「「いつもやってて、すぐ弾ける曲」」
あまりにもきれいなユニゾンだったので、二人は座り込んだまま肩を組んで大笑いした。音のチェック中のメンバーが、怪訝そうに振り向く。
「いよいよおかしくなったか」
ジュナは気の毒そうに、肩からレスポールを下げたまま合掌した。
ミチルたちの選曲を残して、突貫工事の作業そのものはだいぶ終わりが見えてきた。そこへ、ミチルたち2年生には馴染み深い声が聞こえてきた。
「おーい、やってるか、そこそこ愛しい後輩たち。恩を着せにやって来たぞ」
ガサガサとビニール袋の音を立てて歩いて来たのは、3年生の佐々木ユメ先輩と、田宮ソウヘイ先輩だった。
「ほら、私たちが自腹でわざわざ買って来てあげた差し入れだ。有難く思え」
「わあ、有難くもないけどいただきます」
1ミリグラムの遠慮もなく、ミチルは受け取った。このやり取りができる時間も、残り10か月をとっくに切ったんだな、と思いながら。ユメ先輩とソウヘイ先輩のビニール袋の中にはエナジードリンク、スポーツドリンク、炭酸ドリンクなど計10本が並んでいた。
「おーい、集合ー」
ミチルは手を叩いて、最終チェックをしていた他のメンバーを呼び集める。並んだドリンクを見て、1年生たちは目を輝かせた。
「まだ会ってない人もいたよね。この胡散臭い人達が、フュージョン部の3年生。佐々木ユメ先輩と、可愛い子が入ったら紹介しろってうるさい田宮ソウヘイ先輩」
「そうだミチル!まだ紹介してもらってねえじゃん!」
呆れたようにジュナが後ろから頭をしばく。
「なんで堂々としてんだよ!」
「俺は何事も正々堂々がモットーだし」
「こんなのをこれから先輩って呼ばないといけないんだぞ、お前ら」
「すみません、こんなので」
ソウヘイは頭を下げる。どんな人達かと身構えていた1年生たちは、毒気を抜かれたあとで笑い合った。その後ひととおり自己紹介が済んだあとで、ユメはステージ上の巨大なスピーカーを感心して眺めていた。
「ふーん、なるほど。面白い事やってるじゃない。薫くん、だっけ」
ユメは、何やらへたり込んでコピー用紙に計算式を走り書きしている薫を向いた。
「はい、村治薫です」
「なるほど、オーディオ同好会の子が協力してくれてるわけね。ありがとう」
「いいえ。オーディオ同好会はもう、廃部が決まってますから」
その言葉に、ユメはニヤリと笑った。すると、黙っていたクレハが立ち上がって、ソウヘイ先輩に声をかけた。
「田宮先輩、お忙しいとは思うんですけど、明日の審査の時、ちょっとだけ先輩たちにお願いしたい事があるんです。いいですか」
「おっ、なんだ。ローディでもやって欲しいのか。ギター運びでもエフェクターの準備でも、何でもやるぞ」
クレハは田宮先輩を体育館の片隅に呼び寄せて、周囲に聞こえないように何事かを説明した。すると先輩はスマホを取り出し、いったん廊下の奥に引っ込む。しばらくして戻って来ると、クレハに向かって大きく両腕でマルを描いてみせた。クレハは「ありがとうございます」とお辞儀をした。とてもベースギターを弾いている人物とは思えない、端正な所作だった。実家が茶道の裏千家なのか、華道の家元なのかはまだ不明である。
それじゃ頑張れよ、とだけ言い残して、先輩ふたりは体育館をあとにした。そして、話をしながらも当日のセットリストについて考えていたミチルとマヤは、ようやく4曲を絞り込んだ。
「リアナ、あなた達も4人で1曲やりなさい」
「えーっ!?」
リアナは驚くと普段の10倍の大声を出す事が、メンバーにはだんだんわかってきた。
「やれる曲でいい。なんなら今リハーサルやりなよ」
「でっ、でも、先輩たちは」
「あたし達にリハーサルなんて必要ない。何日ライブ続けてきたと思ってんのよ」
そのミチルの堂々とした返しに、リアナたちはたった1年違うだけで、こうも大きく見えるのだろうかと敬服していた。曲目を確認するだけで、あとはぶっつけ本番でいい、と言っているのだ。1年後の自分達に同じ事ができるだろうか、と思いつつ、薫を除いた1年生4人は集まってあれこれと話し合っていた。
しばらくして、4人は互いに頷き合うと、リアナが代表してミチルに伝えた。
「それじゃ、リハーサルやります。先輩方、チェックをお願いします」
数日前に入部したばかりなのに、もう頼もしくなってきたじゃないか、とミチルは微笑んで頷いた。
アオイがデジタルパーカッションでリズムを取る。かと思いきや、パーカッションの前に立つアオイが手にしているのは、メンバー全員が存在を知っているにも関わらず、お前それ持ってたのか、とツッコミを入れずにいられない楽器だった。某機動戦士なんとかに出てくる、丸いマスコットのような頭がついた、音符のような形状をした電子楽器。そう、明和電機が開発したオタマトーンである。
アオイの左右でリアナとサトルがそれぞれガットギター、エレアコを構え、後ろでキリカがキーボードに陣取る。やがて、キーボードによるウッドベースと、ギターの伴奏とともに、アオイが弾き始めたメロディーは。
それは、学生ならおそらく100パーセントの確率で習うであろう、ヨハン・シュトラウス二世「美しく青きドナウ」であった。それはいいのだが、オタマトーンの独特すぎる音色と、完璧なギターの伴奏のミスマッチが絶妙すぎて、聴いているミチルたちは爆笑する以外になかった。だが、聴いているうちに不思議とそれは心地よい音色にも聴こえてくる。リアナのガットギターと相俟って、なんとも不思議な音の空間が体育館に広がった。
しかし、演奏が終わってミチルたちが拍手をしている最中、オタマトーンは脇にどかされ、アオイはいつものようにパーカッションのスティックを手にした。
「あっ」
全員が、そのスネアドラムのイントロに同時に声を出した。その、やはり誰もが聴いたことのあるイントロは。
「そう来たか」
ミチルはニヤリと笑った。その曲は、おそらく知らない人間の方が少ないであろう、ヨハン・シュトラウス一世による最高傑作とされる行進曲、「ラデツキー行進曲」である。
「そうか、ウィーンフィルニューイヤーコンサートだ」
クレハは、毎年の新年に行われるコンサートで必ずラストに流れる2曲の構成である事に気付いた。清水美弥子先生などは、おそらく毎年コンサートを聴いているだろう。主旋律はリアナのガットギターが担当し、そこにシンセベースとエレアコ、さらにパーカッションが入ることで、ともすれば民族音楽のようになりがちなギターアレンジが、見事なバランスの1曲になっている。
演奏が終わった時、ミチル達からも、興味深そうに集まってきていた運動部や教員たちからも、盛大な拍手が起こった。それはあたかも、本当にニューイヤーコンサートのラストを思わせるかのようだった。
「お疲れ!良かったよ、うん、本当に良かった」
ミチルはリアナの肩を抱いて褒めちぎった。お世辞抜きの讃辞である。
「これは、私たちも気合入れないと1年生に食われるね」
「心配ならリハーサルやっとく?」
マヤとマーコに、ジュナは「冗談だろ」と返した。
「あのセットリストなら、寝ながらでも弾ける」
それは、ついさっきドリンクを差し入れしてくれたソウヘイ先輩が過去に豪語したセリフだった。
ようやく翌日の準備が整い、機材類に保護カバーをかけると、それぞれが自分の楽器を持って帰宅する態勢に入った。
「長い戦いが、明日終わるんだな」
ジュナが、感慨深そうにステージに並ぶ機材を見た。「触るな」と乱雑に油性ペンで書かれた紙が、機材に貼られている。マヤも、力が抜けたような表情で微笑んだ。
「長かったね」
「でも、楽しかったよ」
マーコのその一言に、異を唱える者はいなかった。クレハも目を閉じて、日々を思い起こすように頷く。
「そうね、楽しかった。色々、大変な瞬間もあったけど」
「まだ終わってないよ」
ミチルが、少しだけ真剣な表情でステージを見る。
「まだ終わってない。そして、明日上手く行ったとしても、私たちの活動は終わらない」
「そうだな。明日を、スタートラインにしようぜ」
ジュナが出した手に、全員がその手を重ねる。みんなの手の熱さが伝わってくる。
「フュージョン部――――」
「ファイッ!!!」
まるで運動部のような円陣に、まばらに残って居たオーディエンスから、ささやかに拍手が贈られた。ミチル達は、わずかな不安と大きな期待を胸に、暮れゆく学校を後にした。
そのミチルたちを苦々しげに見つめ、足早に体育館を立ち去った人影に、ミチルたちが気付いていたかは定かではない。