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Light Years(45) : Interlude

 驚くほど静かな日だった。ミチルは、午前10時ごろに自宅のベッドで目を覚ました。何か夢を見た気がするが、思い出せない。とにかく、全身に疲労がのしかかっている。
 ふいに、カーペットに投げ出されたスマートフォンが点滅しているのに気付いて確認すると、市橋菜緒先輩からのメッセージが届いていた。
『今日はお疲れ様。素晴らしい演奏でした。挨拶に行きたかったけど、部活のみなさんの手前、遠慮しました。ゆっくり休んでね。』
 今日?ミチルは、ふと気付いた。そうだ、自分たちは音楽祭に出演した。たぶん昨日の事らしいので、菜緒先輩からのメッセージに気付かないまま寝てしまったのだろう。
「…ここまでどうやって帰って来たんだろう」
 まるで、飲み会の翌日のおじさんみたいな事を呟いたあと、ミチルは他の人からもメッセージが山ほど届いている事に気が付いた。部活のメンバー、竹内顧問、クラスメイト。読む気力がない。
 そういえば、と思ってミチルは自分の服装を見た。いつもの、ニューヨークの夜景のシルエット模様のパジャマを着ている。髪からは、いつものコンディショナーの香りも漂ってくる。つまり、昨夜はきちんと帰宅して、シャワーを浴びて、着替えてベッドに入ったということだ。きちんとしているわりに記憶がない。
 そこでようやく思い出した。昨夜はクレハのところのタカナシさんと、ジュナの兄貴と、清水美弥子先生がメンバーを自宅まで送り届けてくれたのだ。ミチルはジュナの兄貴の改造ミニバン、流星号でバイパスを駆け抜けたのを思い出した。わりとスピード違反していた記憶があるが、気のせいだろう。
「…そういえば」
 ミチルは慌てて、竹内顧問のメッセージを開いた。すると、機材はすでに会場から学校に運んだ旨が記されていた。ということは、顧問のオンボロハイエースは復活したのだろうか。とりあえず安心すると、ようやく頭がスッキリしてきた。

 メンバーからのメッセージは、だいたい月並みなものだ。お疲れ様。楽しかったね。早く寝なさい。それぞれ性格が出ていた。そんな中でもジュナは突出している。『お前の顔面が髪で隠れてて、貞子がすごいテクニックでEWI吹いてるようにしか見えなかった』誰が貞子だ。
 後輩、先輩からのメッセージもある。みんなよく丁寧にメッセージ打つ気力があったな、と思う。そう思っていると、マヤから追加のメッセージが来た。
『生きてるか!?死んでるなら死んでるって言え!』
 無理を言うな。せっかくなので『いま死んだとこ』と返しておいた。即座に『それならいい』と返ってきた。いいのかよ。

 ひととおりメッセージを返し終えたあと、ミチルは小雨が降っていることに気が付いた。もしこの雨が一日早かったら、半ドームとはいえ、音楽祭はどうなっていたかわからない。
 雨の音は好きだ。どのみち、この疲労度では外出する気力もない。コントラバスのように重く感じられる身体を引きずって階段を降りると、居間でハルトがお笑い特番をつまらなそうに観ていた。
「おっ、貞子が起きたぞ」
「お前もか!!」
 いったい昨夜の自分がどこまで貞子だったのか。すると、ハルトはスマホの動画投稿アプリを開いてみせた。それは、おそらく一般客が撮影したと思われる、ミチルの演奏の様子だった。風のせいで長い黒髪が顔を覆い、下向き加減の姿勢でEWIを吹く女。投稿タイトルは『音楽祭に貞子おったwww』。352いいねが、一瞬で383いいねになった。よくねーよ。397、405。いい加減にしろ。コメント欄も『貞子の演奏上手すぎて草』『この貞子プロなの?』『貞子始まった』など、好意的なのかどうかわからない。
「バンドの奴ら、姉ちゃん達すげえな、って言ってたよ」
 ハルトが、多少感心したような目でミチルを見た。自分では言わない。
「来年、俺たちも出ようかな、って話になった」
「ふうん」
 今度はミチルも、感心したように弟を見る。
「いいんじゃないの。出なさいよ。あと1年続けていれば、きっと上達してるよ」
「…姉ちゃん達みたいなのは無理だけど」
 ハルトの表情は、少しだけ自信を失っているようにも見えた。きっと、ミチルたちの演奏と自分たちを比較してしまったのだろう。ミチルは、フュージョン部に入部して、今の2年生5人がようやく揃った頃の事を思い出していた。
「ハルト。あたし達もね、最初は先輩達の演奏が上手くて、だいぶ劣等感感じてたもんだよ」
「そうなのか」
 ハルトは、少しだけ目を丸くした。
「そうだよ。これって練習の差じゃなく、もともとの才能の差なんじゃないか、ってね。何かを始めた人は、みんなそう思うものなの」
「そういうもんか」
「当たり前よ。けどね」
 ミチルは、冷蔵庫から牛乳のパックを出してコップに注いだ。
「そこで折れるかどうかが、たぶん達成できる人と、そうでない人の、最大の違いなんだと思う」
「姉ちゃんは折れなかったのか」
「折れたよ、何度も」
 ハルトはダメじゃん、とツッコミを入れてきた。ミチルは続ける。
「あたしの場合は、折れてもまた伸ばして、また折れて、ってのを繰り返してきた気がする。ジュナに言わせると、あたしは投げるサジをその都度買ってくるタイプだろう、って。10回20回サジを投げても、また買ってきちゃう。永遠にサジを投げ続けてる間に、結局は身に着いちゃったのが、あたしなんだって」
「無茶苦茶な理屈だな」
「理屈なんか、何でもいいよ。自分に合った方法で、身につきさえすればね」
 飲み干したグラスを洗い、スタンドに戻す。テレビを見ると、ピンク色のスパンコールのスーツを着た芸人が、わけのわからないダンスをしていた。
「まあ、月並みな言い方だけど。折れないで続けてごらんなさいな」
「それでダメだったら?」
「どうするか選べばいい。やめるか、また投げるスプーンを買ってくるか」
 それは突き放した言い方に聞こえるが、自分で選んだ道を進むか曲がるかは、結局のところ自分で決める以外にない。その選択権は他の誰にもないし、その結果についての責任も誰にもない。
 ミチルは、冷蔵庫の中をまさぐって卵やネギ等を取り出した。
「ブランチには遅いが、ランチには早い、微妙な時間だな。まあ仕方ない」
「なんか作るの?」
「チャーハン」
「俺の分も作っといてくれる?」
「あんたね、チャーハンくらい作れないと女の子に相手にされないよ。材料だけ刻んでおいてやる。炒めるのは自分でやりなさい。火事は起こさないように」
 そこそこ姉らしい事を言って、ミチルはネギとハムを刻み始めた。昨夜あれだけ食べて、まだ食欲があるのかと自分でも思う。よく大人が、学生時代はどうしてあんなに食欲があったのか理解できない、と言うけれど、これがそうかと思いながら卵を割った。

 昨日までの慌ただしい日々が、嘘のようだ。口に運ぶチャーハンの、想定より少々固く焼けた卵に眉をひそめながら、窓の外を見る。ふと一瞬、生け垣の向こうに黒い影が飛び出したように見えたが、近所の誰かだろうか。
 ジュナもさすがに今日はダウンしているだろう。もっとも彼女の事なので、こちらの予想を裏切って、ギターのノイズシールド加工だとかピックアップ交換だとかをやっていても不思議はない。

 ハルトによると、昨日ミチルが頑張ったので、ご褒美に何やら夕食は期待していいらしかった。何が出てくるのだろう。ちなみに母は知人と共同で、ストーンのアクセサリーショップを経営している。"パワーストーン"という呼び方は安っぽくて嫌いなので、単に"ストーン"と呼んでいるらしい。
 さすがにゴロゴロだけしているわけにもいかず、ミチルは残り3週間と少しの夏休みをどうするか考えた。来週から10日間程度、盆を挟むので実質は1週間程度の、叔父さんの純喫茶でのアルバイトがある。料理を目当てにあんがい客は来るので、いつもいるお姉さんは調理役に回り、ジュナとミチルが給仕役である。
 そうなると、早めに宿題を進めておかないといけない。が、今日ぐらいは休んでもいいだろう、とミチルは考えて、とりあえず近くのコンビニまで行く事にした。

 同じ頃、ミチルが住む市内のカフェで、一人のサマースーツの女性が薄いノートPCを広げていた。開いたブラウザーには、先日のミチルたちの演奏を一般客が撮影した動画が流れている。サングラスを外すと、女性はアイスティーを一口傾けた。
 女性の席に、慌ただしく薄手のグリーンのジャケットを羽織った、30代前半といった雰囲気の、眼鏡の男性がやってきた。
「遅れました、京野さん」
「別にいいわよ。それより米倉くん、送ったリンクの動画は確認した?」
「はい。確かに、面白い子達ではありますね」
 男性は座ると、紙ナプキンで額の汗を拭いた。女性は着けていたワイヤレスイヤホンをケースに戻すと、ノートの動画再生を再開する。ちょうど、ミチル達がT-SQUARE"Control"を演奏している様子だった。スマホかビデオカメラかわからないが、音はお世辞にもクリアではない。
「実を言うとね、米倉くん。昨日、木吉レミが出演取り止めってマネージャーさんから聞いた時、あの人に会わなくて済むって内心で喜んでたのよ、わたし」
「ちょっ…」
 米倉は、指を立てて周囲を見回した。
「やめてくださいよ。万が一誰かに聞かれたら」
「聞かせてやりたいくらいよ。たかが20何年ていどで、大御所、御意見番気取り。もっとキャリアが長くて、100倍謙虚なミュージシャンもいるっていうのにね」
 音楽誌「レコードファイル」編集部の京野美織38歳は、ミディアムストレートの髪をかき上げた。彼女は過去に何度か木吉レミに取材しており、そのたびに長々と自分語りに付き合わされ、さらに取材の間に見せるスタッフへの粗暴な態度に辟易してきたのだった。
「けど、昨日の彼女には感謝してるわ。顔を見ずに済んだのみならず、こんな子達の存在を知れたのだから」
「あのう、面白いのは面白いんですけど、今どき演奏が上手い学生なんて、You Tubeでいくらでもいますよ。…あっ、すみません。アイスコーヒーひとつ」
 通りかかった店員をつかまえた後で、米倉は首を傾げた。
「これくらいの子たち、他にもいるんじゃ…」
「本当にそう思うなら、勉強し直すことね。私にはわかる。この子たち、本物よ」
「はあ」
 とりあえず先輩に言いたいように言わせておこう、といった様子で米倉は動画を覗き込んだ。
「ずっと年配の編集に言われた事だけど。何の世界でも、"天賦の才"っていうのは私たちが思っている以上に存在している、というのね」
「はあ」
 まるっきり聞き流す調子で、米倉は運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップを全部入れると、ストローで吸い込んだ。京野美織はブラウザに映る、ミチルとジュナが近寄って演奏する場面を見た。
「じゃあどうして、天才っていうのは数少ないのか。少なくともそう見えるのか、って訊いたら、ダイヤの原石も見出されなければ路傍の石にすぎない、ですって」
「じゃあ京野さんは、この子たちをダイヤの原石だと思ってるわけだ」
「それどころか、この子達自身がすでに、自分達をダイヤモンドだと自覚している。でなければ、こんな自信に満ちた演奏はできないわ。特にこの、サックスの子」
「ああ、もうネットで話題になってますよ。髪の毛が貞子みたいだ、って」
 すると、京野美織は米倉にニヤリと笑った。
「本当にそれだけだと思う?」
「はい?」
「彼女が注目される理由が、本当に、そんなネタ要素だけによるものだと思うの?」
 美織は、氷が溶けて薄まったアイスティーを不味そうに飲み干すと、ブラウザの別なタブを開いた。そこには、南條科学技術工業高等学校の公式ウェブページが表示されていた。

 コンビニでファッション誌とカップのラクトアイス2つを買うと、ミチルは傘をさして自宅への道を歩いた。気温は少し低めで、すぐにアイスが溶けるような心配はない。そういえば昨夜は1年生たちもだいぶ暴食していたように思うが、それこそ例のジャズボーカリストみたいに、腹をこわしていないだろうか。
 すると、その時突然電話が鳴った。
「ん?」
 さてはハルトが、買って来て欲しいものを今になって電話してきたか。そう思って確認すると、相手は珍しいことにクレハだった。LINEではなく電話というのは、一体何か。
「もしもし」
『ミチル、今どこ?』
 何か、切羽詰まったような様子で訊ねられたので、ミチルは何事かと身構えた。
「どこって、家の近くのコンビニを出たとこだけど。これから帰るとこ」
『いいこと、ミチル。今すぐそのコンビニに戻って』
「どういうこと?」
『早く!』
 クレハにしては強い調子で言われて、ようやく只ならぬ事態だと悟ったミチルは、足早にすぐにコンビニに戻った。その時、視界の片隅で何かが動いたような気がした。
「戻ったよ」
『そう。じゃ、お店の人に、店内で人を待たせて欲しいって断ったうえで、そこにいてちょうだい。レジの人から見える位置にいて。今、龍二さん…小鳥遊がそっちに行くわ。ええと、お店の所在地は?』
「ちょっ…ちょっと待って」
 ミチルはレジのお兄さんに人を待っている事を告げると、店の支店名を訊ねた。
「もしもし。ファミリーキッチン南若林町店」
『南若林店ね。わかった』
 そう言うと、クレハは通話を切った。一連の会話から、ミチルもさすがに何となく察したらしく、レジ横のコーヒーマシンの近くから、さり気なく外に視線を向けた。そしてミチルは、背筋が凍るかと思うものを見たのだった。

 誰かがミチルを見ている。

 ハッキリとは見えない。だが、一瞬道路の反対側の自販機の陰から、明らかにミチルの方を見ている人影があった。背格好の雰囲気は男性だ。クレハの注意はその事だったのに違いない。
「ストーカーだ…」
 うっかり、そう呟いたのをレジのお兄さんに聞かれたらしい。お兄さんはさり気なく近寄って来て、コーヒーマシンの影から声をかけてきた。
「ねえ、ひょっとして何かヤバイ事に巻き込まれてる?」
「うっ、いっ、いえ、なんでも」
「俺らコンビニ店員も、色んな人を毎日見るからね。なんとなく、わかっちゃうんだ」
 なるほど、そういうものかも知れない。振り込め詐欺を見抜いて阻止するコンビニ店員の話もよく聞く。ミチルは、頼れそうな年長者が店にいる事に心から安心しつつ、窓の外に目を向けた。
「今あの自販機の陰に見えた奴だね。ストーカーか」
「…たぶん」
「君はそこを動かないで。ちょっとだけ待っててね」
 そう言うとお兄さんは、バックヤードに引っ込んだ。どうやら、警察に電話をしてくれているらしい。お兄さんと入れ替わりに、ミチルより少し年上の女性店員がミチルについてくれた。
「アイス貸して。溶けちゃうでしょ」
「え?あっ」
 ミチルは、ラクトアイスを買った事をすっかり忘れていた。
「冷凍庫に保管してあげる」
「わっ、わざわざすみません」
 なんて気の利く人達だ。日本のコンビニって店員がきめ細やかすぎじゃないだろうか。海外は知らないが。
 しかし、とミチルは思った。どうしてクレハは、ミチルがストーカー被害に遭っているらしい事を知っているのだろうか。そういえば、例の学校での放火事件でも、クレハは妙に探偵じみた推理を披露した。名探偵のアニメを観ているからって、視聴者が名探偵になれるわけではない。
 そこで、ふと疑問に思ったのが、クレハの付き人らしい小鳥遊さんだ。クレハからは龍二さんと呼ばれている。小鳥遊龍二、彼はいったい何者だろう。何となくだが、クレハのあの妙に研ぎ澄まされた感じは、小鳥遊さんから漂う雰囲気に似ている。
 不安と困惑の中、黒塗りの高級車とパトカーがほぼ同時にコンビニに到着したのは、それから5分ばかり後の事だった。

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