Light Years(26) : 放課後の音楽室
フュージョン部の部員勧誘ストリートライブ、ラスト3日のうち1日目は若干太陽がかげっており、涼しい代わりに雨が心配な状況で始まった。
のっけから今までと様相が異なり、最前面には新入部員の1年生3人が陣取っていた。おかっぱ眼鏡の鈴木アオイがハンドマイクで真ん中に立ち、その左にデジタルパーカッションの長峰キリカ、右にはノートPCの前に座る獅子王サトルの姿があった。左奥では2年の金木犀マヤがキーボードの前に立ち、右奥で取って付けたようなEWI担当のミチルがいる。
冒頭、サトルがPCから流した歓声のSEに合わせ、ミチルのEWIがファンファーレを奏でた。「うまぴょい伝説」おなじみのイントロが流れ、ボーカルは女子3人が担当する。ベースなどリズム部分は打ち込みで、あとはキーボードとパーカッションの生演奏で音に仕上げた。わりと知っている生徒も多いようで、一緒に歌う者、踊る者も見える。ほぼ原曲どおりのサウンドを再現しており、反応は上々だった。
しかし、曲のサビに差し掛かるところで、なんとミチルはEWIを置いてアルトサックスを持ち出し、デジタルサウンドに生のサックスを重ねてきた。しかも、決まった進行ではなく、アドリブで上手に楽曲に合わせてくる。
―――モダンジャズだ、と誰かが呟いた。そう、主題の演奏のあとでアドリブ、即興の演奏を重ねてくる、モダンジャズの理論をゲームのアイドルソングに持ち込んだのである。この考え方はまさにフュージョンの真骨頂で、聴衆は呆気に取られ、聴き入ってしまったのだった。
ラスト3日の段階でさらに新しい音の世界を聴かせたフュージョン部に、鈍色の空の下で拍手が送られた。ミチルの退院後の復帰演奏も、完璧といっていいインパクトを見せた。
続く”RAGE OF DUST”は言わずと知れたロックナンバーで、これはジュナが水を得た魚のように元気だった。とにかくディストーションをかけてギターを鳴らしていれば幸せ、という人間なのである。この曲にもミチルはサックスで参加した。やはりブラスサウンドが入ると、曲のイメージがゴージャスになる。この曲は珍しくジュナとクレハによるコーラスが聴け、フュージョン部の面々にとっても新鮮だった。これは当然のように盛り上がり、歓声と拍手のうちに締め括られた。
3曲目の”Smooth Criminal”は、もう誰でも知っている名曲なので、イントロが流れた瞬間に盛り上がった。マイケルのダンスの真似を始める者もいる。これに関しては、原曲のアレンジをほとんど変えておらず、むしろその通りに再現するのをメンバーが楽しんでいる。メインボーカルはいつも通りジュナが務めたが、要所要所でサックスが入るので、ミチルもそれなりに活躍の場面はあった。
間奏ではフュージョン部お約束の悪戯があり、有名な”アンチ・グラビティ”をジュナと、支える役のミチルで再現してみせると、オーディエンスからは笑いと拍手が起こった。
4曲目の準備に入ると、ジュナは唐突にメンバーに耳打ちした。予定ではフュージョン部の定番曲のひとつ、リー・リトナー”Get up, stand up”を演奏するはずだったのだが、選んだジュナによる変更で、1年生の戸田リアナがガットギターを手に出て来たのだった。しかも、リアナ以外は誰も演奏する気配がない。リアナは高い椅子に腰かけると、落ち着いた様子でナイロン弦を爪弾き始めた。誰もがどこかで聴いた事のある、温かい音色とメロディー。ゴンチチ”放課後の音楽室”だ。
初心者向けとされる事も多い曲だが、ソロの難易度を上げようと思えば上げられる曲でもある。リアナはわざわざ難易度が高いソロアレンジを選び、フィンガリングで見事に弾いてみせた。それまでポップ、ロックナンバーが続いた所へ、穏やかな曲を持って来た事も新鮮だったが、1年生の少女による高度で完璧な演奏に、オーディエンスは息をひそめて耳を傾けた。演奏が終わると盛大な拍手が起こり、リアナは笑顔でお辞儀をした。その様子は他のメンバー達に、それまでのリアナよりも少し大きく見えたのだった。
リアナは自分の椅子を手早くたたみ、1年生が控える後方に下がった。そのすれ違いざまに、ミチルは小さくリアナに耳打ちする。
「良かったよ。もう大丈夫だね」
その声に励まされたのか、リアナはそれまでの緊張がどこかに吹き飛んだような笑顔で、1年組の輪の中に向かった。アオイ達は拍手しながらリアナを招き入れ、ようやく”1年生4人組”としてのまとまりが見えて来たのだった。
ラストナンバーは、導入としてザ・スクェア名義の1984年の曲”ADVENTURES”で始まった。どっしりと構えたベース、バスドラムから雄大に始まる演奏に、一瞬でその場の空気が変わる。風が強く吹き抜けた。やがてギターとEWIのメインパートが入り、演奏が終わるとともに、”OMENS OF LOVE”のイントロにつながった。
そのとき、小さな奇跡が起こった。
イントロと同時に雲が裂け、眩しい日差しが演奏する5人を照らした。立ち込める暗雲をバックに陽光に照らされる、それは神秘的な光景だった。
いつもやっている定番曲でもあり、また名曲でもある。全員が、心から演奏を楽しんでいた。私たちはフュージョン部なのだ、という自信が、ひとつひとつの演奏にあらわれていた。間奏のギターソロからEWIのソロへのバトンタッチでは、ジュナとミチルがいつものように背中をぴったりと合わせ、互いの鼓動を感じていた。
予定変更をはさみつつ5曲をきっちり演奏し、9人が揃っていっせいにお辞儀をする。惜しみない拍手が全員に送られた。
予定調和のごとく、アンコールが起こる。もうすでに毎日のライブが定番になっており、下手をすると廃部確定でも終わるまでやり続ける事になるのではないか、という心配さえメンバーは思い始めていた。
「なにやろっか」
マーコが、ドラムの汗をタオルで拭きながらミチルに訊ねる。
「スクェアは今やっちゃったしな」
「なんかあるでしょ」
「うーん…」
そのとき、ミチルは雲間から差し込む太陽の光を見て、突然何かを思い付いた。
「ライトイヤーズ…」
その、呟くような声に、2年生5人が何か予感めいたものを感じ、背筋が痺れるような感覚に陥った。それが何だったのか、その時の5人にはわからなかった。
「Light Years。チック・コリア、やろう」
正確には、チック・コリア・エレクトリック・バンドの1987年の曲である。テンポはそう速くもなく、音もシンプルなのだが、独特のリズム感で再現は難しい。だが、ミチル達はこの不思議な曲がとても好きで、思い出した頃に演奏する事があった。
「なんだか久しぶり」
「そうね。いける?」
クレハとマヤが、ミチル達に確認する。ミチルはサックスの音出しをして、感覚を思い出した。他の曲とは全くトーンが異なる唯一無二の曲なので、イメージを整えなくてはならないのだ。
「よし」
「OKだ」
ミチルとジュナも頷き合うと、それぞれが演奏位置につく。その真剣な表情に、いったい何が始まるのだろう、という空気ができつつあった。
バスドラムがリズムを取り、キーボード、ギターが入る。やがてミチルのサックスが入ってきたが、この曲には主旋律というものがほとんど存在しない。どのパートがメインというわけでもなく、全てのパートが入れ替わり立ち替わりして音の世界が構築される。まるで、宇宙船で星を眺めながら恒星間航行しているような感覚に陥ってしまう。
演奏が終わったとき、5人は不思議な放心状態に襲われていた。それはオーディエンスも、後ろに控えている1年生も同じだったようで、日差しが戻って熱気がたちこめてきた空気の中、しばし無言で誰もが立ち尽くしていた。
ふいに、誰かが小さく手を叩く。それに続いて、小さいが間断ない拍手がミチルたちに贈られた。奇妙な脱力感のなか、ミチル達はもう一度深くお辞儀をして、その日の演奏を締め括ったのだった。
機材の片付けをして部室に戻ると、フュージョン部の9人と薫はめいめいドリンクで乾杯した。
「最後のあれ、なんて曲なんすか」
オレンジ色のビタミン系ドリンクを半分くらい一気に飲んだ、獅子王サトルがミチルに訊ねる。
「知らないと思うけど、チック・コリア・エレクトリック・バンドっていう、昔のフュージョングループの"Light Years"っていう曲。1987年だけど、全然古く感じないでしょ」
「面白いですよ、あの曲。まるで先輩たちそのまんまっていうか」
そのサトルの感想に、2年生たちは一瞬考え込んだ。
「どういうこと。私たちそのまんまって」
笑いながらミチルは、レモンティーのボトルをあおった。
「なんだか先輩たちって、不思議なんですよ。宇宙人みたいっていうか。俺たちとは違う、遠い世界からやってきた人達って感じがするんです」
「あははは、何よそれ!」
「マーコは宇宙人っぽいけどな、何考えてるかわかんねーし」
ジュナの言葉にマーコがむくれる。
「うるさい、ギター星人」
2年生たちは笑う。だが、サトルをはじめ1年生たちは、何となく神妙な顔をしていた。すると、黙っていたキリカがドリンクのボトルを置いて訊ねた。
「先輩たちって、バンドの名前あるんですか」
「えっ」
その質問に、2年生全員が絶句した。そう、今まで5人でずっと一緒に1年以上やってきて、バンド名など全く考えた事がなかったのだ。なんとなく「フュージョン部」で片付けてきたが、それを言ったら1年生も3年生もフュージョン部である。ミチルは、鳩が豆鉄砲を食ったような表情で答えた。
「…そういえば、ない」
「えーっ。勿体ないですよ、決めましょうよバンド名」
「急に言われても、出て来ないな。ねえ」
「じゃ、さっきの曲のタイトルからつければいいじゃないですか」
その、あまりにもストレートな提案に、ミチル達はまたも面食らう。そんないい加減な決め方でいいのか。だが、"Light Years"は単に光年、という意味の英語である。悪くないのではないか、と何となくメンバーは思い始めていた。
「どうする」
「うーん」
「いま急いで決める必要もないと思うけどな」
口々に2年生たちが言っていると、ミチルのスマホにLINE着信があった。
「おっと」
誰だろうと思って通知を見ると、それは顧問の竹内先生だった。おおかた、夏休み中の市民音楽祭の件で打ち合わせか何かだろうな、と思いながら、トーク画面を開く。
『活動お疲れ。こっそり聴いてたけど、上手くなったな。ところで、部活の件でちょっと話がある。というか、会議で少々もめてな。悪いが今、B棟第二職員室まで来れるか』
なんだ、それは。ミチルは不安に思いつつ、みんなの顔を見渡した。
「…顧問から。部活の件で、だって」
その、不安そうな声色が全員の肝を冷やした。クレハの表情も固い。
「何かしら」
「問答無用で廃部になりました、とか」
マーコが縁起でもない事を言うので、全員の視線が集中する。
「ごめん」
「ま、なんだか知らないけどちょっと行って来る。帰るんなら鍵はそのままでいいよ、わたしが返しておくから」
ミチルはそう言うと、凛とした所作で立ち上がり、背筋を伸ばして部室を出て行った。その姿に感心しつつも、マヤが呟いた。
「ああだから、倒れるのよ。一人で頑張っちゃうから」
マヤの溜め息に、他のメンバーも重い表情を見せた。1年生たちは、入ったばかりの部活がどうなるのかと心配な様子だった。
第二職員室に行くと、竹内先生は相変わらずの天然パーマの頭を難しそうに傾げながら、腕組みしてデスクを見つめていた。
「おう、来たか」
ミチルの姿を認めると、先生は笑顔を作ってみせた。大人だ。
「…部活の話って」
「まあ、座れ」
先生は、隣の椅子を勧めてきた。ミチルは不安を隠せないまま座ると、緊張しながら先生を向いた。先生は、軽くため息をついてミチルに向き合った。
「お前から、合計9人まで増えたという報告を受けたんでな。あと1人という現状を、学校に報告した」
「…はい」
「そこでな。俺は、仮に10人達成できなくても、もう部活として認めてやっていいんじゃないか、と提案したんだ。そのうちまた部員が入るかも知れないし、ってな」
その報告に、ミチルは軽く驚いた。しかし竹内先生は、ひょろっとして見えるが実はわりと剛直な神経の持ち主である。噂に聞いたところでは、清水美弥子先生とも丁々発止の言い合いだったらしい。
「そしたら、向こうは驚くような提案をしてきた。現状で同好会として存続するという事で決着してはどうか、と言うんだ」
「…え?」
ミチルは耳を疑った。
「…学校側って、教頭先生ですか」
「まあ、そういうことだ」
「話が違うじゃないですか。私達は、部活として存続するための条件を提示されて、ここまでやって来たというのに」
ミチルの握った拳が震えた。竹内先生は、眉間にシワを寄せている。
「そうだ。俺も、いま大原が言ったとおりの事を、ぶつけてやった。最初の約束を違えるのか、それを教師が生徒に示すのか。土壇場でルールを変えるのが大人の社会だと教えるのか、ってな」
目に浮かぶようだった。この先生もよくやるものだ、とミチルは感謝しつつ思う。だが、何にせよ事態は良くない方向に向かっているらしい。
「…それで、どうなったんですか」
「いったんは、保留って事になった」
「…そうですか」
ミチルは、不安に苛まれていた。ここまできて、最後に理不尽なルール変更で負けるのか。過労で倒れ、ニンニク注射まで打たれたのに。
すると、先生は突然、語調を強めた。
「大原。何としてもあと一人、見つけろ。それでダメだと言ってきたら、校長に直談判してやる」
竹内先生に火がついたようだった。この人は、有言でも無言でも実行する人だ。校長室に怒鳴り込む様子が目に浮かぶ。大丈夫なんだろうか。
「現状でも同好会、っていう言質は取ったからな。だが、それだってあの教頭だと反故にしてこない保証はない。10人揃えば問答無用で、あのバカを黙らせる事ができるんだ」
バカ。いま、あのバカって言った。ミチルは、第二職員室に他に誰もいない事を確認して安堵した。
「やれるか」
ミチルは返答に窮した。あと1人くらい、何とかなるかも知れない。だが同時に、それもまた保証があるわけではないのだ。
だが、この状況で退けるわけがない。もともとミチルからして、教頭の性格は嫌いである。目的は目的だが、このさい、嫌いな奴に一矢報いるという、多少ネガティブな動機がプラスされても構わない。ミチルは力強く頷いた。
「やります」
「よし」
先生はそう言うと、おもむろに財布を取り出して、迷いもなく5千円札をミチルに差し出した。
「少なくて申し訳ないが、ここまで頑張ったお前たちに差し入れだ。好きなもの、食うなり飲むなりするといい」
「ちょっ…ちょっと」
「いいんだ。ただしそれ以上は出せん。女房にばれたら飯を抜かれる」
そう言って先生は笑った。ミチルは、大人ってこういう事なんだろうなと思い、その好意を素直に受け取る事にした。この人が顧問でいてくれて良かったと、心から思う。
「ありがとうございます。いただきます」
先生は、ミチルの肩をバンと叩いた。まるで男子扱いだ。ミチルは立ち上がると、5千円札を両手で持って深々とお辞儀をした。
差し入れを握りしめて、ミチルは部室に戻ることにした。もうみんな帰っただろうか。あるいはお人よしのみんなの事だ、ミチルを待っているかも知れない。最後の戦いは、残り2日になろうとしていた。