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Light Years(37) : 過ぎ去りしトレモロ

 ミチルが用事で部活に出て来ない28日をはさんで、2日ぶりにフュージョン部は部室に集合した。とはいえ、すでに当日予定のセットリストはもともと定番のナンバーでもあり、ことさら練習する必要はすでにない。マヤはプリントアウトした、音楽祭出演当日の予定表を手に説明した。
「じゃあ当日の流れを確認するよ。ミチル以外のメンバーは、午後四時半までには西公園の半ドーム裏のテントに集合。ミチルはその前までに、顧問のバンで機材と一緒に到着してる予定」
「あの年代もののハイエースか」
 ジュナの一言で、平成何年型だかのシルバーのハイエースがメンバーの脳裏に浮かんでいた。リアの左に凹みがあるのですぐわかる。
「前の日までには機材を積み込むからね。エフェクターとかシールドとか、小物類は忘れないように」
「はーい」
「万が一の故障トラブルもあり得るから、エレキとベースは予備を持って行った方がいいと思うんだけど、どうする?」
 マヤの指摘は、過去に実際ライブ直前でベースギターの故障が起きているからである。その時は仲のいい他のバンドから借りられたのだが、そう都合よくいくとは限らない。
「あたし兄貴の車で行くから、自分のぶんは持って行くよ」
「私も、家の人が車を出してくれるから大丈夫」
 ジュナとクレハはマヤに頷いた。マヤも確認して頷くと、ボールペンでチェックを入れる。
「マーコ、あなたは自分用の椅子を持って行くんでしょ」
「うん。ドラムの高さが不安だ」
 マヤが確認を取ったのは、音楽祭のドラムスはステージ上の共用のものだからだ。事前にドラマーの要望を伝えておけば、セッティングについてはある程度考慮してくれるのだが、椅子の高さがどうなっているかわからない。背が低いマーコは、備え付けの椅子だと高さが足りない可能性があった。
「椅子も積んでおく、と」
 せいぜい30分足らずの出演ではあるが、客席のキャパシティーは最大で2200席にもなる。立ち見も含めるなら2500人以上のオーディエンスになる可能性もあり、TV局やメディアも取材に来る以上、中途半端な準備で恥をかくわけにもいかない。マヤはどんな細かい事にも余念はなかった。
「虫除けスプレーとかは入念にね。腕に蚊がついてるくらいで演奏ストップさせちゃダメよ」
「大丈夫、あたしはミチルに身体すり寄せるフリして蚊を退治するから」
 ジュナに半分真顔で言われたミチルは、こいつならやりかねない、という目で睨んだ。
「さすがに音響は向こう任せだから、今回は薫くんの出番はないか」
 ひととおりチェックし終えたマヤは、大きく伸びをして薫に向けて笑った。薫は普段の、どこか硬さをのぞかせる表情を緩めて微笑んだ。
「僕ら1年組はのんびり客席から聴いてますよ。かき氷でも食べながら」
 薫は同じ1年のアオイ、サトルとともにノートPCを覗き込んでいたが、画面を2年生に向けてみせた。
「今までのストリートライブの中から、10曲ばかりチョイスして動画で上げてみました。昨日の夜アップして、現在まで平均220PVというところです」
「それって多いの?」
「多くはないですが、とりあえず見てもらえてはいるようです。コメントもついてますけど…」
 そこまで言って、薫はサトルと渋い表情で顔を見合わせた。
「なによ」
 何かを察したミチルが、四つん這いでブラウザをのぞきこむ。『女子高生でこの演奏は神』だとか、まあ好意的と言っていいコメントがある一方で『走ってる』『ストリングスをEWIで誤魔化すなよ』『原曲とソロのメロディが違う』『キーボード音抜けてるぞ』などなど、演奏に対してこと細かいコメントが目立つ。中にはもっとストレートに『俺の方が上手い』などといったものもある。
「何なのよ、こいつら」
「ほっとけ、ほっとけ。どうせ自分じゃ出来ねー奴らだ。俺の方が上手いって、どこの誰が言ってんだよ」
「むー」
 ジュナがフォローするも、ミチルは憮然としていた。演奏を公にする以上、批判コメントがつくのも承知してはいるが、実際に届いてみると面白いわけはない。クレハは涼しい顔で保冷ボトルのお茶を飲んでいたが、『ベース音ちょっとズレたんじゃね』というコメントが何件も続いているのに気付いて、わずかに眉間にシワが寄ったのを1年生組は見逃さなかった。
 マヤはというと、面白くなさそうな顔はしているが、口に出して文句を言ってはいない。なぜかというと、自分で演奏をミスしている事に気付いているからである。特に、歌いながら弾かなくてはならなかった曲についてはミスがひどい。実際問題コメントの通りなので、なおのこと面白くないのだった。
 それでも、ストリートライブ後半に近い日付のものは全員の演奏もこなれてきて、ミスが問題ないレベルにまで減っている事に気付く。それなりに、短期間で成長しているようだった。
「これって、やっぱり薫くんがマスタリングしたの?」
 クレハは、ノートPCのスピーカーでもそれなりにクリアに聴こえるサウンドに感心していた。
「はい。動画だと圧縮音源になっちゃうんで、少しだけ厚みが出るように調整しています」
「圧縮音源か。じゅうぶんきれいだけどね」
 マヤが腕組みして音を聴き込む。音楽配信となると音質には気を配りたいが、AACやMP3などの非可逆圧縮音源を用いる以上、音質劣化は避けられない。そこで薫は、音に厚みを持たせることで聴感的に劣化が目立たないよう誤魔化すことにしたのだった。
「圧縮音源ってどういう原理なの?」
 マーコが訊ねると、横のミチルが「やめろ、バカ」という視線を送った。薫のオタクトークが始まったらどうするのか。しかし、薫も多少わきまえてきたのか、比較的かんたんにまとめた解説にとどまる。
「簡単に言うと、”聴こえない音”を削ってデータ量を減らす技術。例えば、全パートが一斉に音を出している時に生ギターを入れても、ドラムやボーカルにかき消されて聴こえないでしょ。だから生ギターの音はバッサリ削ってしまう。この理屈で、小さいレベルの音をプログラム側の判断で削っていくことで、16ビットの音を4ビット程度にまで圧縮して、再生する時に見かけ上だけ元に戻す。まあ、人間の耳を”騙してる”って事だね」
「サギじゃん!」
 マーコは憤ったが、そもそもスマホにも圧縮した音楽が大量に入っている。今までそんな音を聴いていたのか、とそれなりに驚いているようだった。
「まあ、サギと言えばサギだけど、ふつうに聴いてるぶんには気付かないからね。地上デジタル放送やBSデジタル放送の音も圧縮音源だから、『CDと同等の音質』っていう放送局の説明は厳密にはウソだよ。ちなみに、圧縮原理はAACだろうとMP3だろうと、基本的には30年近く前に開発された、ミニディスクのATRACと変わらない。ミニディスクなんて僕らの世代じゃ使ったこと自体ないけど、データ処理自体は同じ事をやってるんだ」
 そこで、ミチルからひとつの質問が投げかけられた。
「ねえ、薫くんのそういう知識って、どこで身についたものなの?」
 ミチルの問いは今まで疑問に思っていた事であり、それは全員の疑問でもあった。薫は、一瞬神妙な顔を見せたものの、間を挟んで語り始めた。
「まあ、単にオーディオマニアだからって事になるけどね。色んな本を読んで来たから」
 そう語る薫の顔をまじまじと見ながら、それまで黙っていた人物が、唐突に予想外の質問をした。その声の主は1年理工科の戸田リアナである。
「ねえ、ひょっとしてだけど、薫くんって…ギター教室にいた男の子じゃないよね」

 その、一見何でもなさそうな質問に、薫は背筋を瞬間接着剤で柱に張り付けられたかのように硬直した。他のメンバーは、何事かと怪訝そうな表情を向ける。リアナは、ミチルたちに向かって説明した。。
「私、小さい頃に母親の薦めで、村治ギター教室っていうところに通ってたんです。村治幸之助さんっていう、有名なクラシックギタリストの先生の教室なんですけど」
「村治!?」
 全員の視線が、宇宙戦艦の主砲斉射のように薫に集中した。薫は顔面蒼白で硬直している。リアナは続けた。
「そこで、時々私たちと一緒に演奏している男の子がいたんです。とても上手でした。先生のお孫さんっていうのは知ってたんですけど、今にして思えば、眼鏡を外した顔がそっくりのような気がして」
 すると、ミチルは猛然と薫に詰め寄り、眼鏡を外して顔をリアナに向けた。
「ほら。眼鏡なしバージョン」
「あっ、やっぱり。あの男の子だ」
 その一言で、部室内は俄然ざわめき立った。もしリアナの推測が本当だとしたら、その男の子とは今ここにいる薫のことで、薫は少なくとも子供の頃にギターを弾けた、という事になる。すると、ジュナが鬼の首でも取ったような顔で、エレアコを手に薫の前で仁王立ちした。
「おい」
 ジュナはエレアコを薫に突き出す。薫の額には汗が浮いていた。
「弾いてみろ」
 もはや脅迫だった。今まで、楽器の演奏はできないと言っていたのはウソだったのではないか。薫は救いを求めるようにミチルを見たが、ミチルは知らんぷりをして明後日の方角を向いた。ミチルだけは、薫が弾けるということを知っていたのだ。
 薫の肩は震えていたが、やがて観念したようにエレアコを受け取ると、音叉もチューナーもなしでチューニングを始めた。――こんな芸当ができる時点で、すでに弾けると白状したようなものである。

 しんと静まり返った部室に、やがて切ないメロディーが響いた。パラグアイのギタリスト、バリオス・マンゴレの”過ぎ去りしトレモロ”だ。その、完璧な演奏に全員が聴き入った。―――完璧だ。非の打ちどころがない。弦がスチールなので音色は違和感があるが、逆にむしろスチール弦の音を演奏テクニックでカバーしている。同じギタリストのリアナは、驚きながらも過去を思い出しながら頷いていた。そう、この音色だ、と。
 演奏が終わると、慎ましやかに拍手が贈られたものの、それ以上に、怒号に近いジュナの驚きの声が響いた。
「上手いじゃねーか!!なんで隠してた!?」
「あっ、あのっ」
 それまで堂々と弾いていた薫がドギマギし始めたので、ミチルが慌てて間に入ってフォローした。
「ごめんなさい!!私、実は知ってたの!!」
「なに!?」
「薫くんはギターが弾ける事、私知ってたの!けど、薫くんは大勢の前で弾けないっていうから、黙ってたの」
「…弾いてるじゃねーか。9人の前で」
 ジュナのツッコミは全く反論の余地がない。9人は多いとも言えないが、少ないとも言えない。その前で一曲弾いてみせた以上、弾けないというのは通じない。だが、薫は突然冷静になって説明を始めた。
「いいよ、ミチル先輩。まだ、正確に説明してなかった僕が悪い」
 再びギターを爪弾いてみせたあと、薫は語った。
「うん。僕は9歳くらいまで、ギターを習ってたんだ。戸田さんの言うとおりだよ。戸田さんが覚えてる少年、それは僕に間違いない。…戸田さんや、他の子たちの記憶はないんだけどね。申し訳ないけれど」
 
 薫が説明する所によると、小学校に入ってすぐの頃から、薫はギターの練習を始めた。名人とうたわれた祖父の血か、あるいは薫陶のたまものか、薫の腕前はすぐに上達していった。
 そして9歳のある日、薫は地元で開催された児童のギターコンクールに出場した。そのコンクールには、薫がよく知っている少女も出場が決まっていた。少女の演奏は好評で、審査員たちの表情から、おそらく彼女が優勝するだろう、という事が、出番を控えた薫にもわかった。じゃあ自分はむしろ気楽なものだ、運よく3位でも取れれば、祖父の面目も立つだろう。
 ところが、それは薫の誤算だった。何が誤算かというと、薫の実力が完全にその少女を上回っていた事である。しかも、薫はすでに優勝を諦めたことで、完全に近い状態でリラックスできていた。皮肉なことに、それが薫のベストパフォーマンスにつながった。コンクールの優勝者は薫だった。

 その報告を電話で聞いた祖父は喜んだ。薫も嬉しかった。だが、次の瞬間の光景は、薫に決定的なものをもたらしたのだ。

「その女の子は、母親に宥められながら、2位のトロフィーを持って泣いていた。…僕が出場しなければ、その手には優勝トロフィーが握られていたはずなのに」
 そう考えたのは傲慢だっただろうか。傲慢であるにせよ何にせよ、それが9歳の少年にとって、ショッキングな光景である事には変わりなかった。
「その瞬間、どうして、って思ったんだ。僕はギターを弾くのが好きで、あの日もステージで気持ちよく演奏していた。その結果、一人の女の子を泣かせてしまった。音楽で、どうして人を負かさなきゃならないんだろう、って、家に帰ってから母親に問い詰めたんだ。祖父にも食ってかかった。そのとき、祖父がなんて答えたのかは、もう覚えていない。ただ言える事は、僕はその時以来、少なくともステージではギターを弾けなくなってしまった、ということだ」
 薫の言葉は、子供の頃の話とはいえ、それなりに重みを伴ってメンバーに受け止められたようだった。
「それでも、ギターの練習は一人で続けてきたけどね。弾く事は好きだから、今でも家では弾いてるんだ。けれど、ステージに立ったら、オーディエンスの前に立ったら、あの子の泣き声が蘇って、僕は逃げ出してしまうと思う」
 その話を聞いて、薫に凄んでみせたジュナも少し重い表情になっていた。今まで、そんな風に音楽について語られた事はなかったからだ。そしてミチルは、まさにそのコンクールに出場したはずの、吹奏楽部の市橋菜緒の事を考えていた。もう結果は出たはずだが、まだ連絡はない。
 音楽のコンクールというのは、当たり前に存在する事だ。音楽でなくても、絵画でも何でも、作品で優劣を競う事に疑問をさしはさむ者は、少なくとも世間一般ではいない。だが、音楽で勝敗が決まるという、それまで疑問にも思わなかった事に、疑問をさしはさむ少年が現れたのだ。それは、少なからずミチルの価値観を揺るがすものだった。
 音楽は、勝敗を分けるための武器なのか。誰かを負かすための凶器なのか。それはつい先日、プロを目指そうと誓い合ったミチルとジュナにも、少なからぬ衝撃をもたらしたようだった。
「…悪かった。問い詰めるような事言って」
 ジュナは、済まなそうに軽く頭を下げたが、薫は何事もなかったように小さく笑った。
「ああ、気にしないでいいよ。単に、僕が考えすぎなだけだと思うし。コンクールに出る以上、あの女の子だって誰かに負ける事は、覚悟しているべきだったんだからね、その程度の認識は、僕にもあるよ」
 けれど、と薫は言った。
「出来る事なら、音楽は楽しむためのものであって欲しいよね。現実には…たとえばプロになろうとか考えているのであれば、失敗する可能性だけでなく、自分が”上手く行く”陰で、誰かが泣いているという事もある、っていうことだ」
 ミチルのスマホに、吹奏楽部がコンクールで3位に入賞した、というメッセージが市橋菜緒から届いたのは、その12分後の事だった。

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