Light Years(152) : Jacket Town
いちおう"石井スタジオ"と呼ばれてはいるが、驚くべき事にそのスタジオは、厳密には正式な名前がなかった。石井材木店の時代を感じるWEBサイトの隅に、"スタジオ利用は材木店事務所まで"と書いてあるだけで、意外に存在を知らないバンドマンが大勢いる。
ちなみに土日は材木店が休みなので、事務所ではなく社長の自宅に鍵を受け取りに行くという、まず都内のスタジオなどでは絶対にあり得ない仕様だった。
「あんた達、夕方のテレビに出てただろ」
たしか社長のお母さんだった筈の白髪の女性が、スタジオの鍵を受け取りに母屋を訪れたジュナ達5人の顔を確認した。この間ローカルのバラエティーに出たせいで、ローカルアイドルだと思われているらしい。
「ワールドワイドなんだか、ローカルなんだか」
最近お気に入りのEG-5ではなくエピフォンのレスポールモデルを取り出しながら、ジュナが半笑いで呟いた。胡座をかいてチューニングしている様は、部室と同じである。
「とりあえず、最後のセッションと同じにもう一度演奏してみるか。そこから、改めてアレンジを煮詰め直してみよう」
「いいんじゃないの」
「全員、リズムとかコードは大丈夫だよな」
ジュナが確認すると、若干不安そうだが一応全員が頷いた。なにしろ、まだ手をつけて間もない新曲である。今回、サックスはバックに回る事になったので、ミチルはそれほど忙しくない。メインのギター以外で地味に忙しいのが、キーボードだ。
兎にも角にも一度合わせてみないと始まらないので、まず一番新しいアレンジで演奏してみた。ジュナのギターはほとんどクリーントーンに近く、レスポールらしい厚く柔らかい音だ。可愛いというのとは少し違うが、これでもイベント用としては楽しくて悪くないのでは、とミチルは思う。
「タカソーさんからは、もう少し可愛らしく、っていう注文だったんだけど」
いったん演奏を終えて、マヤが内容を振り返った。
「もちろん、向こうはミュージシャンじゃないから、どこをどうすればいいか、なんて指示はない。みんな、アイディアとか意見はある?」
だんだん学級会じみてきた。だが、誰からも意見がない。というのも、演奏を繰り返しているうち、少なくとも今のアレンジが、単品の曲としては悪くない、と思えてきたのだ。
「現状でも悪くないと思うけどな。なんていうか、エスニックな感じ?」
「そうね。この間ミチルが作ってきたメロディーも、民族音楽っぽくて良かったと思う。あれと同じシリーズと考えるなら、悪くはないわ」
マーコとクレハのリズム隊には好印象らしい。アフロ・ビートという初めてやるパターンも新鮮だったようだ。マヤも頷いた。
「エスニックアレンジのシリーズっていうのも、悪くないかもね」
「30年くらい前だけど、あるアニメのライブで、"60分間世界1周"っていう企画をやった事があるわ。キャラクターそれぞれの声優さんが、いろんな国や地域のイメージの曲を歌うの」
「なるほど。そういうコンセプトのアルバムもあるか」
なんだか空気が和んできたところで、ジュナが本題に戻した。
「それで、いま問題のアレンジをどうするかだな」
「うーん」
ミチルは唸る。可愛らしく、と言われても、どうすればいいのか。
「マヤ、なんか可愛いSEとか入れられない?ベルとか、鈴とか」
「安直じゃない?」
「いいから、試しにさ。録音に合わせて、なんかやってみてよ」
ミチルに促されて、マヤはキーボードにプリセットしてある効果音ライブラリーを掘り返した。自動車のクラクション、ピンク・フロイド"Money"のコピーで使った古いレジスターの音、金貨が散らばる音などなど。その中から、ベル系のサウンドを録音したデモに重ねてみる。
「ダメだな」
言い出しっぺのミチルが、すぐに手を振って却下した。マヤが言ったとおり、安直すぎる。いかにも演出しています、という感じだ。
「ギターをテレキャスに変えてみるとか。あのチャカチャカした音なら、イメージ変わるかもよ」
「リアナに預けちまってるからな」
ジュナは、そういえばジャンクのレストア品を2台も、現在1年生に貸しっぱなしである事に気付いたらしい。青いアイバニーズは、もはやリアナのトレードマークにさえなりつつある。
「ここ、明日も予約取るか?さっき聞いたら、午後は空いてるらしいぞ」
「そうだね。明日バンド出られない人、いる?」
マヤが確認を取る。手を挙げる人はいなかった。
「じゃあ、明日もだね」
「あたし、帰りにリアナんとこ寄って、テレキャスいったん借りてくるわ」
もともとジュナの所有物を、借りてくるというのも変な話だ。だが、物というのは不思議と、もともとの所有権に関わらず、だれかのもとに収まってしまう事がある。ミチルの本棚にも、父親が全巻揃えておきながら、難しいと言って放り出し、ミチルが借りっぱなしの漫画があった。
「まだ1時間半あるよ。試せるだけ試してみよう」
珍しくマーコが声出しをして、全員が頷いた。まだやれる事はある。ドラムパターン、コード進行、サックスとピアノのフレーズなどなど。それらを仕上げておけば、明日テレキャスの音を入れた時に、上手くはまるかも知れないのだ。
窓の外は、また雪がちらついていた。降るには降るが降雪地帯といえるほどではないので、ちょっと積もると交通がストップしてしまう事がある。若干の不安を抱えつつ、5人はアレンジの調整を続けたのだった。
「悪いな、陽が暮れてから」
玄関口で、ジュナ先輩が受け取ったギターケースを手にしてはにかんだ。先輩から借りっぱなしになっていた、花柄の壁紙を貼り付けた青いテレキャスターだ。アイバニーズといい、青がお気に入りなんだろうか。ファーつきの真っ白なジャケットを着込んだ先輩は、いつも通りカッコいい。
「いえ、大丈夫です。いま、うちに誰もいませんから」
「…そうか」
先輩は、少しばつが悪そうな顔をした。うちには父がおらず、母子家庭だという事を話したのはついこの間だ。気を遣わせてしまったかも知れない。気をそらすために、リアナは話を変えた。
「テレキャス使うんですか、新曲に」
「まだわからない。やってみてダメだったら、また別な方法を考えるさ」
「いつも、先輩たち凄いなって思います。まるでプロみたい…あっ」
そこまで言って、リアナは口を閉じた。先輩達はいちおう、れっきとしたプロである。
「まあ、まだ駆け出し、端くれではあるけど、一応はプロだからな。一応な。まだ、本物のレスポール買う金もないけど」
そう言って、ジュナ先輩は笑った。つられてリアナも笑う。本物のレスポール。いつか、ジュナ先輩がそれを手にして、大きなステージに立つのをリアナは想像した。
「それじゃ、ちょっと使わせてもらうぞ」
「あっ、はい。レコーディング、頑張ってください」
「ああ。風邪引くなよ」
先輩は、優しい微笑みを残して静かに玄関の扉を閉じた。誰もいなくなった玄関に、先輩の匂いが残っている。シューズケースの横に飾られている、母が買ったミュシャの絵の女性は、なんとなくジュナ先輩に似ているように見えた。
「うーん」
ミチルは、きょう録音してきた何種類かのアレンジをイヤホンで聴きながら、ベッドでもんどり打っていた。
「悪くはないと思うんだけどな」
ついさっき録音した、バレンタイン催事用BGMのデモ、最終バージョン。リズムやコードを見直して、きのう依頼主のタカソーデパートに送ったバージョンよりも格段に良くなった。これはこれで、ひとつの完成形としていいような気がする。
だが一方で、何かが足りないというのもミチルにはわかった。その、足りない何かがわからないのが、まだミチル達の未熟さだ。プロのミュージシャンはその足りない何かを、即座に見極めて納品に間に合わせなくてはならない。感性の活動を、仕事として行うのがプロのクリエイターなのだ。
これが自分達のアルバムのための曲だったら、オーケー、このアレンジでレコーディングしよう、となっていただろう。だが、今はクライアントのための仕事だ。なので進行中の作業を、外部の人間に聴かせて意見を求めるわけにもいかない。ひょっとしたら問題ないのかも知れないが、その辺はどうなっているのだろう。まだ、わからない事が多過ぎる。
「だめだ」
ミチルは再生を止め、スマホの通知を見た。LINEが数件入っているが、登録しているミュージシャンや楽器店のお知らせ、広告だった。ギター弾き語り楽譜、ピアノアレンジ楽譜20パーセントオフ。安いけど、うちのバンドには何でも採譜してアレンジしてしまう変態、もとい頼りになるメンバーが一人いるからな。
だが、スマホを閉じて仰向けになった時、何かひっかかるものがあった。何か、思い付いたのだろうか。自分でわからないなら、何も思い付いてなどいないのかも知れないが。疲れてきたので、ひとまずその日は早めに眠る事にした。ひょっとしたら、また夢で何か思いつくかも知れない。
吹奏楽部を引退した市橋菜緒は、自宅で入試に向けた追い込みに入っていた。第一志望は東京都内の音大である。音大といっても当然、学科試験はあるし、実技試験もてんこ盛りだ。学力には自信はあるが、自分よりも優秀な人間などいくらでもいる、と考えるのが市橋菜緒だった。
佐々木ユメは、地元の大学に行くという予定を変更し、東京近郊、静岡、千葉、茨城あたりの理系大を受ける事になった。キャリアと、バンド活動の両方を考えての決断だという。何事にも真面目な彼女らしい。中途半端、どっちつかずだと言う人間もいるだろうが、菜緒は親友の選択を尊重した。
その菜緒はというと、第一志望では管楽器を専攻する事にした。やはりサクソフォーンに馴染んできた事もあるし、どんな道に進むにせよ、ひとつ軸を据えて集中的にスキルを身につけたい。音楽家になれないとしても、学校の先生になって音楽を教えるといった道もあるだろう。
「さもなければ、ミチルのバンドに入れてもらおうかしら」
冗談にも聞こえない冗談をひとり呟いて、菜緒は笑った。ザ・ライトイヤーズに自分が加入する。絶対にない話だとは言い切れないが、まずあり得ないだろう。あのバンドはあの5人でなければ成り立たない。もし誰かが欠けたら、どうなるのだろう。実際ユメの親友のバンドは、ベースがアメリカに留学するので活動休止になるらしい。ファンの間では動揺が走っているが、いずれ新体制で活動再開という噂もある。ロックはそれなりに好きだが、あまり詳しくもないのでわからない。
もう、大学入試が始まるのは目の前だ。音大、理系大の両方を受ける予定の菜緒には、相当な体力、精神的負担があるだろう。だが、自分で選んだのだ。いまさら逃げる事もできない。
終わったら、ユメと連れ立って受験のストレスを発散してやろう。ふたりで旅行に行くのもいいかも知れない。いや、それだとフュージョン部のカリナが嫉妬するかも知れないから、3人で行くか。あるいは、ミチルとまたセッションをやるのもいい。まったく、入試なんてなければいいのに。
「それで、夢で答えは得られたの?」
キーボードをセッティングしながら、マヤがミチルに訊ねた。
「ぜんぜん。変な夢見た。家の中で弟とバーベキューやってるの」
「よく火事にならなかったな」
「うん、壁が燃え始めたところで目が覚めた」
どうしてああも、睡眠中に観る夢というのは不条理なのだろう。ミチルが今までいちばん意味不明だった夢はやはり、押し入れを開けたらキャンディ・ダルファーがドラえもんみたいに寝ていた夢だ。
「いつもは寝起きとかでいいアイディアが浮かぶミチルさんも、今回はダメか」
「あれはどういう現象なんだろうね」
取るに足らない会話をしながら、ガレージ二階のスタジオはザ・ライトイヤーズの練習スタジオになっていった。マーコはツーバスが相変わらずしっくり来ないようだ。
「うちらの音楽でツーバスって必要なの?」
「バカ、何言ってんだ。ツーバスの元祖はジャズドラマーだぞ」
ジュナが呆れたようにマーコを見た。そう、ツーバスはもともと20世紀アメリカの偉大なジャズドラマー、ルイ・ベルソンが元祖である。デューク・エリントンやカウント・ベイシーのバンドにも参加した人物だ。
「そうなの?」
「まあ確かに、ハードロックとか、メタルのイメージがあるけどな」
「実はちょっと動画とか見て勉強してるんだけどさ、ツーバス」
そう言って、マーコは高速連打を実演してみせた。ワンバスにツインペダルの時より、スムーズで気持ちいい連打だ。マーコはまだ自前のセットを持っていないが、そのうち買う日も来るのだろうか。買ったとして、どこに置くのか。どうも、ドラムスというのはベースやギターに比べて、いろいろとハードルが高そうである。
「このテレキャスも久々に弾くな」
ジュナは、久々に手元に戻って来た花柄のテレキャスターを弾いてみた。独特の爽やかなトーンが心地よい。
とりあえずみんなのセッティングが終わったところで、気分転換にコピーナンバーで音を合わせよう、という事になった。曲はイエロージャケッツ、”Jacket town”。フュージョン部の定番レパートリーのひとつで、ジャズ要素が残ったフュージョンナンバーだ。
肩慣らしができたところで、さっそく目下の課題、デパートのバレンタインデー催事用BGMの制作に移る。
「また昨日と同じので、一度やってみる?」
「感覚を掴まないといけないから、そうしましょう」
クレハの意見もあり、もう一度現在の最終バージョンを演奏してみる。もうだんだん慣れて来て、すでにひとつのレパートリーになりつつあった。ジュナが導入したテレキャスターの音もあってか、今までとだいぶ雰囲気が違う。とりあえず、演奏を終えて録音を再生してみた。
「うん。いいね」
「可愛いかどうかはわかんないけど、テレキャスの音が絶妙に柔らかくて雰囲気出てる」
「よし、これでもう一度、きちんと合わせてみよう。それで提出してみて、向こうの意見を聞く」
賛成、と全員が頷いた。ジュナはエフェクターの音を少しだけ調整する。改めてデモ音源を録り直し、その日は早めに切り上げる事になった。このアレンジなら、納得してもらえるかも知れない。みんな作業を終えると手早く機材の片づけを終え、コート、ジャケットを着込むと、凍える帰路についた。今度こそ、と思いながら。