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Light Years(107) : Magic Of Sound

 例の交通事故現場に遭遇した事で少し遅く現地入りしたため、ジャズフェスティバル会場を見渡す時間があまりなかったザ・ライトイヤーズの面々は、袖の階段から聴こえてくる演奏と、外から響く歓声や拍手でしか、会場の様子がわからなかった。愛機のレスポールを下げたジュナが、隣のミチルに訊ねる。
「何十万だっけ?」
「わかんないけど、たぶんGLAYとかの伝説のライブより多い」
「最低でも20万ってことか」
 そこでふとジュナが以前のリモートライブで、カメラの向こうのオーディエンスの数に怯むリアナとアンジェリーカを落ち着かせるため、ミチルが引き合いに出した話を思い出した。
「蟻の数がいくらだって?」
「誰が計算したのか知らないけど、地球上の蟻の個体数は推定で2京匹。人間1人あたり250万匹の蟻がいるんですって」
 そこで、マヤが吹き出した。
「ここでそんな話してる余裕がある時点で、もう大丈夫なんじゃない?」
「むしろ、もうちょい緊張しろって話だよ」
 マーコのツッコミに、全員が笑い出す。すると、傍らで紙コップのコーヒーを飲んでいた、白い総髪の白人男性も一緒に笑っていた。
「面白い奴らだな。噂どおりだ」
 ミチル達が声に気付いて振り向いた。どうやら日本人らしい。革の上下でロックミュージシャンっぽいが、アコースティックギターのケースが立てかけてある。ミチルは何となくその風ぼうから、1人のアーティストの名を思い出した。
「あの、ひょっとして、寺岡ジョーさんですか」
「へえ、俺の名前を知ってるか。大したもんだ」
 ミチルが寺岡ジョーと呼んだ、60代前後と見えるギタリストは、飲み干した紙コップをくしゃくしゃにしてゴミ箱に放った。少し、カタギではないような語り口だ。
「そうだ。13年前に女房と娘に逃げられ、細々としがないステージで食いつないでいる、ろくでなしさ」
 自嘲というより自虐レベルの自己紹介に、5人の少女はそこまで言わなくても、と思う。ひと癖ある人物なのは間違いない。寺岡ジョー。ブルースシンガーであり、近年はインストゥルメンタル作品、そして外見からは想像しにくいが映画音楽の作曲などもこなす、知る人ぞ知るミュージシャンだ。
「まっ、こんなのでもこんなデカい舞台に呼んではもらえる。神様に感謝しなくちゃな」
 外見に似合わないセリフを吐きながら、寺岡さんはミチルの前に立った。
「ザ・ライトイヤーズの大原ミチルさんだね。初めまして」
「こちらこそ、初めまして。お会いできて、光栄です。名前まで覚えていただけて、恐縮です」
「うん。いい目をしている」
 差し出された太い指の手を、ミチルはガッシリと握り返した。長年ギターを弾き続けてきた、音楽の大先輩だ。
「自分で気付かないだろうが、実のところ、君らの楽曲はジャズ・フュージョン界隈では静かに注目されている」
 一瞬、胸からタバコの箱を取り出しかけて、寺岡さんはすぐにそれを引っ込めた。
「ルックスだおれの演奏家も多いが、君らは演奏能力との両方がある。そういうミュージシャンは、時々出現する」
 寺岡さんの目は語りながら、喫煙スペースを探していた。どうやらヘビースモーカーのようだ。
「あのっ、大観衆の前で緊張せずにいられる方法ってありますか。寺岡さんみたいに」
 何気ないミチルの質問に、寺岡さんは笑った。
「そんな方法、俺が知りたい」
 その答えに、ミチル達は困惑した。プロのベテランは、緊張せずに演奏できるのではないのか。寺岡さんは、足を外に向けてタバコの箱を取り出した。
「アドバイスなら、他のもっとまともなやつに訊くのを勧めるよ。俺なんざ、女房とも最初の事務所とも長く続かなかったろくでなしだ。ミュージシャンとして我を通せば、ついて来る奴もいるが、離れて行く奴もいる」
 その語り口がそのままブルースだな、とミチルは感じた。良い人かどうかはわからないが、悪い人でもない。
「だがまあ、そうだな。君らが考えるべきなのは、失敗する事よりも、成功した時の事だな」
「…どういう意味ですか」
「言ったとおりの意味だよ。君らはひょっとしたら、いつか大きく花開くかも知れない。だが、その時が一番危険な時だ。その時、自分自身でいられるか、だな」
 タバコを指に挟み、寺岡さんは外に向かって歩き出した。
「まっ、年寄りの言う事なんざ聞き流してもいいよ。俺も若い頃はそうだったしな。じゃな、演奏聴かしてもらうぜ」
 寺岡さんは颯爽と、と言うには少しぎこちない足取りで、喫煙スペースを探して立ち去った。後に残された少女たちは、もう数分で出番という所で、口の悪いベテランギタリストの言葉が妙に耳に残っていたのだった。
「成功した時、だって」
 マーコが、ぽつりと呟いた。
「そんな日、来るのかな」
「さあな。今は、文字通り目の前のステージをやるだけだろ」
 ジュナは、少し真剣な顔で歓声が響くステージの方を見た。40代くらいの、見るからにベテランといった黒髪のギタリストが、トム・アンダーソンのグリーンのハムバッカーを左手で持ち、意気揚々と階段を降りてきた。ミチル達は知らないミュージシャンだが、その立ち居振る舞いからして"大物"である事はわかる。
『おお、君達が噂のジャパニーズバンドだね!』
 何語だろう、ミチル達にはわからない。どうやらスペイン語らしく、クレハもお手上げだった。それを察してか、男性は英語で言い直してくれた。
『楽しみにしているよ!じゃあね!』
 それだけ言って、ギタリストのおじさんはバンドメンバーと一緒に楽屋に戻って行った。スペイン語ということは、それこそコスタリカとかチリとか、中南米のミュージシャンだろうか。
「トムアンか、いつか弾いてみたいな」
 ジュナが、遠ざかってゆくグリーンのギターを熱い眼差しで見つめた。ギターのブランドにそこまで詳しくないミチルは、ただプロ向けの高級ブランドとしかわからない。ジュナは、肩に下がった愛機のレスポール"モデル"に小さく「それまで頼むぜ」と囁いた。
「それじゃライトイヤーズさん、スタンバイお願いします!」
 階段下のヘッドセットをしたお兄さんが、右手を上げてステージ上のスタッフとやり取りしながら合図した。いよいよだ。ミチル達の背筋にテンションが走る。
「本番でーす!」
「はい!」
 ミチルの凛とした声が、階段に響く。まだ、プロと呼ぶには経験が浅すぎる少女達は、きょう多くのプロが登った階段を、学校指定のローファーで踏みしめた。

 ステージから、夕暮れの気配が近付く大空と、海としか形容できない人の大群が見えた。ミチル達がステージに登場すると、洪水のような歓声と拍手が全身を叩く。
 広い。ミチルは思った。人が多いというより、人が、広い海を形成している。その周辺には、物販、飲食などのテントが見え、まさにフェスティバルだ。いったいこの一日で、何がどれだけ動いて、消費されたのだろう。
 考える余裕はない。ミチル達は自分のポジションにつくと、サポートスタッフと共に素早く機材の接続、音出しに入った。マーコが早速、椅子の高さを変えてくれと頼んでいる。クレハとマヤは黙々とベースとツインキーボードのセッティングを進め、ジュナはシールドケーブルの長さを確認していた。
 ミチルは、アルトとソプラノそれぞれのサクソフォンのマイク位置を確認する。音響さんから、音出しの指示が飛んだ。ステファニー・カールソンのステージでの経験がここで活きる。もっとも、すでに何組ものアーティストが演奏した後なので、ミチル達の機材に異常がなければ音出しは問題ない筈だった。
「OKでーす!」
 音響さんからゴーサインが出ると、スタッフは黒子のようにステージを去る。あとはミチル達の仕事だ。袖から、ミチルに合図が送られると、ミチルはボーカルマイクの前に立った。
『みなさん、ごきげんよう。私達がザ・ライトイヤーズです』
 ミチルの日本語を、クレハが英語に同時通訳する。オーディエンスから、一斉に拍手が返ってきた。
『今回、コスタリカのアルファロさんが出演できなくなり、私達に出演オファーが届きました。アルファロさんからは、新人の私達に激励を頂いています。この場を借りて、感謝申し上げます』
 それだけ言うと、ミチルは金色のアルトサックスを構え、右後ろのマヤに合図を送った。

 マヤは、上下段それぞれのキーボードの鍵盤に指をかざす。このステージで最初に音を出さなくてはならないのが自分である事に、今さら気付いた。
『(一発目で音外したら面白いだろうな)』
 縁起でもない事を想像しつつ、マヤはイントロを奏でる。"ハリポタのパクリ"と自認する、ミステリアスなシンセサウンドだ。それまで、いかにもジャズらしいサウンドのアーティストがつづいていた所に、唐突に映画のオープニングのようなイントロが流れて、一瞬オーディエンスが静寂に包まれた。マイナーチューンの出だしから、唐突に華やかなジャズ調のピアノに切り替わる。
『(さあ頼んだよ、マーコ、クレハ)』
 
 マーコは、マヤのキーボードを受けてハイハットのリズムを取る。16ビートの基本リズムからのフィルイン。
「(クレハ、いくよ。あたしとあんたが、このバンドの柱だ)」

 ドラムスのリズムを受け、クレハの5弦ベースから、柔らかくもハイスピードな低音が響く。その洒脱なサウンドが、この曲の根幹だ。キーボード、ドラムス、ベース。曲の背景はこれで出来上がった。
「(ジュナ、お願い!)」
 
 マーコとクレハのリズム隊が築いた土台を受け、ジュナのレスポールが軽快ながらもどこかダークなアルペジオを奏でる。曲の雰囲気がいよいよ盛り上がったところで、ディストーション抑えめのパワーコードが曲の雰囲気を決定づけた。
「(さあミチル、お前が主役だぜ。20万だか30万だかの客に聴かせてやれ、お前のサックスを!)」

 ミチルは4人の音を受け取って、息を吸い込む。ユメ先輩に教わったサックス。菜緒先輩からもらったリガチャー。全ての想いを込めて、マウスピースに息を吹き込んだ。
「(みんな、行こう。私たちが、ザ・ライトイヤーズだ!)」

 何だ、この不思議な曲は。オーディエンスは、まるで魔法にかけられたように、その日誰も奏でなかったような楽曲に沈黙した。ジャズなのか、フュージョンなのか。アダルト・コンテンポラリー?どう形容しても正解にも思えるし、違うようにも思える。唯一無二。編成はごく普通のフュージョンバンドなのに、出てくる音はまるで違うのだ。ザ・ライトイヤーズ。この、まだ10代の、学校の制服をまとった不思議な少女たちは、ある日突然、光が差し込むように唐突に音楽シーンに現れた。
 センターの長髪の少女が鳴らすアルト・サックスから流れるのは、力強くもどこか物悲しさを秘めたメロディーだった。リズム感からしてフュージョン的なサウンドかと思いきや、ハーフタンギングと呼ばれるジャズの奏法も取り入れてあり、部分的に半ミュートされた音が独特の世界観を作り上げていた。そもそもハーフタンギングは、一朝一夕に習得できる奏法ではない。その演奏だけで、この少女が持つセンスとテクニックが本物であるという事を、全てのオーディエンスが認識した。

「オーマイガー、なんてこった」
 一人の、白いヒゲをたたえた老齢の白人男性が、手にしていたプラスチックカップのビールを地面に落としそうになった。
「サマンサ、聴いたか今の演奏を。10代の少女が出せる音だと思うか、あれが」
 傍らにいた、スリムなパンツスーツにやや浅黒い肌、長い黒髪の女性は、男性が落としかけたビールの下に手を添えた状態で頷いた。
「配信中の音源を録音し直さなくてはならないのではありませんか。短期間のうちに、驚くほど演奏技術が向上しています。端的に言って、天才と称して差支えないでしょう。3ヶ月後には、さらに向上しているでしょうね」
「ああ。私の耳に狂いはなかったようだ。死ぬ前に、神が引き合わせてくれたに違いない」
「申し訳ありませんが、まだ当分の間は生きていてもらいます。あなたよりずっと年上で、F1チームを率いて年間23戦を戦っているチーム代表もいるんですよ」
 サマンサ、と呼ばれた女性はクールに言い放つと、ステージに目をやった。日本の、学校制服を着た少女たち。じかにこの目で見て、じかに演奏を聴くのは初めてだ。天才と言ったが、それはサックスのミチル・オーハラだけではない。常にヘアバンドをした気の強そうな少女もまた、その見た目からは想像できないような、繊細で色気のあるギターを聴かせる。キーボードのバン・ヘアー、後頭部で髪を丸めた少女の演奏も、情感たっぷりの大人なサウンドだ。ベースのゆるいウェーブヘアの少女は、その穏やかな外見からは想像もできないような、力強いベースを聴かせる。ドラムスの背が低い少女は、息をするように自在にリズムを刻んでみせた。多くのアーティストに出会って来たからわかるが、理屈よりも腕で覚えるタイプに見える。
 日本まで来て正解だった。ニューヨークの本社はエドワードに任せているが、とりあえず仕事を停滞させても火事だけは起こすな、とだけ言ってある。

 1曲目、" Detective Witch"の演奏を無事終えたミチルたちは、しんと静まり返ったオーディエンスに、一瞬不安を覚えた。拍手も何もない。演奏に何か間違いがあっただろうか。それとも、他のバンドの曲と酷似していたのか。あらぬ事をミチルが考えたとき、雨音のような小さな打音が、オーディエンスの海の片隅から微かに聴こえた。
 やがてそれは大きな拍手と歓声のうねりとなり、文字通りの音圧となって、ステージ上の5人の少女の全身を打ち付けた。最前面にいたミチルは、その音圧で倒れるのではと錯覚するほどだった。怒とうのような歓声は鳴り止まない。一体自分達は何をしでかしたというのか。ただ単に、1曲の演奏を終えただけだ。まるで、魔法にかけられたような時間だった。
 だが、歓声に呆気に取られていても仕方ない。ミチルはアルトサックスをシルバーのソプラノサックスに持ち替え、さり気なく運指を確認した。ジュナやマヤがエフェクターやキーボードの設定を切り替える時間を確保するため、ミチルは再びMCに入った。
『我々のバンド名”THE LIGHT YEARS”は』
 ミチルがひとこと呟くと、再び会場が静まった。クレハは引き続き同時英訳を引き受ける。
『実は、私達自身が決めたものではありません。学校の、素晴らしい後輩たちが決めてくれたものです。そして、私達に演奏技術を教えてくれたのは、上級生の5人です。いまここに立っているのは、物理的には5人ですが、実際にはそうではありません。私達が所属する音楽部、総勢16人が今、ここに立っています。素晴らしい友情のために、友が書いた曲です。"Friends"』
 ミチルは、ソプラノサックスをマイクに向けた。本来この曲で使うはずだったAKAIのEWIは今、別な所にある。だが、ソプラノサックスは代役ではない。今日はこれが主役だ。やがて、マーコの合図でシンプルなギターとキーボードのイントロが始まった。空は少しずつ、暮れ始めていた。


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