Light years(96) : Hey Jude
アンジェリーカは時代劇が好きなので、数寄屋造りの家の雰囲気は好きだった。だが村治薫少年の自宅は、一見すると単に古風な日本家屋だが、そこかしこに音楽の香りがする家だった。招かれた薫の自室もまた、小綺麗に整頓されていて、一見するとごく普通の高校生の部屋だが、壁際に一瞬それと気付かないようにオーディオが組み込まれている。壁の両端に壁から少し余裕を持って、腰より高いくらいのトールボーイスピーカーが2メートルくらいの間隔で置かれ、自作らしい分厚いラックの中には、あまり高級そうではないがプレイヤー、アンプ類がセットされている。
「このスピーカーも自作なの?」
アオイが、どう見てもラワン合板に自分でラッカーを吹いた、16cmフルレンジユニットがひとつだけ付いたスピーカーに手を触れた。メーカー製のようにキッチリしてはいないが、仕上げはきちんとしている。
「自作だよ。スピーカー1本あたり…そうだな、材料費だけなら2万円ちょっとかな」
「高いのか安いのかがわからない」
アオイの感想に全員が頷いた。そもそもなぜ自作スピーカーにこだわるのかと訊ねたところ、
「市販品は好みの音が出ないから」
だという。アンジェリーカは首を傾げた。
「フルレンジ1個だけだと、細かい音が出ないんじゃないの?」
「ユニット次第だね。これは1本で1万4千円する、そこそこ高品位なユニットだよ。それに、音楽で一番重要な中音域の分解能は、実は2ウェイや3ウェイよりフルレンジの方が優れてる。論より証拠」
薫くんは訝るアンジェリーカに、姓が同じクラシックギタリスト、村治佳織の2003年のアルバム”Transformations”を再生した。ビートルズ”ヘイ・ジュード”のクラシックギターアレンジが、ふわりと部屋に広がる。
フルレンジ一発のスピーカーの音は何と言うか、濁りや重さがなく、スコーンと抜けるようなシャープでタイトな響きがある。それは飾り気のない、薫くんの性格そのものに思えた。オーディオ、と言われて想像するような音ではない。
「なるほど。フルレンジの音か」
「ふつうのミニコンポの2ウェイスピーカーでも、セッティング次第で音は良くなるけどね。だいたいみんな、ミニコンポは本体をスピーカーで挟んで置いてるだろ。あれじゃ、CDラジオと変わらない」
いつの間にか、薫くんによる「ミニコンポ使いこなし講座」が始まった。
「まず設置条件とかは考えないでいいから、スピーカーの左右を最低でも1.5メートル以上離して、スピーカーと正三角形を描くような位置で音楽を聴いてみて欲しい。できれば生の楽器の録音をね。それで、”ステレオ”の意味がわかる」
薫くんによると、ステレオというのはすでに”サラウンド”なのだそうだ。スピーカーを8台も10台も置いたところで、聴く耳は2つしかない。究極的に音質を追及すれば、2本のスピーカーでサラウンドは実現できるという。ついでに言うと、いわゆる現代のポピュラー音楽は、モノラルの音源をミックスして左右に振りまいているだけの”マルチモノ”であって、生の音源を2本のマイクで録音した本当の意味のステレオ、立体音響とは意味が違うのだという。
「ステレオが理解できたら、今度はスピーカーの設置方法。硬く重い台を使って、耳の高さにフルレンジかトゥイーターの中心が来るように置く。台はガタが出たらダメだ。見て」
薫くんは、自分の背の高いスピーカーの下に敷かれた、たぶんホームセンターで買って来たと思われる、コンクリートの歩道板を示した。よく見ると、歩道板の隅に薄い木片を挟んでガタを抑えている。
「スピーカー設置の基本は重くて鳴きがないスタンド、スリップの防止、ガタの防止。これが出来てなきゃ、どんなスピーカーもろくな音にならない」
「よく、おっさんとかがスピーカーの下にコンクリートブロック置いてるけど、あれは?」
サトル君の質問に、薫くんは手でバッテンを作って首を横に振った。
「あれはよく見かけるけど、一番良くない。大昔のオーディオブームの時に定着した置き方なんだけど、コンクリートブロックはカンカン鳴るし強度もないから、音質的には最悪。置き台は高密度で重く頑丈な事、これが第一条件」
すると今度は、アオイから質問が飛んだ。
「置き場所がカラーボックスの上しかなかったら、どうするの?っていうか、私の部屋がまさにそうなんだけど」
「それはまあ、諦めるしかないだろうけど。それでも出来る事はあると思うよ。例えば、ボックスの上に大理石とかの比重の大きいボードを敷く。これで、カラーボックスの振動がいくらか抑えられて、音質が良くなるかも知れない。あとは、スピーカーを10円玉で浮かせる。これだけでも振動が置き台に伝わりにくくなるから、音は変わると思う。理屈さえわかれば、色んな方法で対処できるはずだよ」
そうやってオーディオについて語る時、薫くんは活き活きとして見える。普段のすました様子が少しだけ後退して、好きな事にのめり込んでいる人特有の熱を感じさせるのだ。普段と今と、どっちが薫くんの”素”なのか、まだ出会って2カ月程度のアンジェリーカにはわからなかった。
そのあとパソコンで、ネットにアップしているミチル先輩たちの動画を観て、みんなで笑っていた。断崖絶壁で船越英一郎の2時間ドラマのモノマネをしているジュナ先輩とマーコ先輩の動画は、すでに30万再生を超えている。『あと20年したらドリフみたいになってそう』というコメントに、まるっきり否定もし切れないアンジェリーカ達だった。
「先輩たちって、どこまで行くんだろうな」
サトルの言葉に、全員が興味深い視線を向けた。確かに気になる。もうすでにいくらかの知名度はある。まだ、大ブレイクというほどのレベルには及ばないが、確実に先輩たち、ザ・ライトイヤーズの存在は浸透しつつある。フュージョンという、少なくとも今の日本の音楽シーンにおいてマイナーなジャンルでは、ひとつの快挙かも知れない。
その一方で、後輩である自分達は、あの存在感のある先輩達の背中を追いながら、何ができるのだろうかと考える。
「私たちも、バンドとしてはまとまってきてるよね」
リアナの表情は少し強張っていた。おとなしそうに見えるが、実はけっこう負けん気が強い子だ。アンジェリーカはよく一緒に行動するので、それが最近わかってきた。蛇足だが、名前が外国人っぽいので自分と同じくハーフだったりするのかと訊ねたら、両親が単にお洒落な名前にしようということで、”リアナ”になったのだという。
「そうだね。ポジションも今ので違和感なくなってきたし」
キーボードのキリカが全員を見渡す。アオイがドラムス、サトル君がベース、ギターのリアナに、サックスはアンジェリーカ。結局、先輩たちと同じ構成になってしまった。
「けど、ミチル先輩は打ち込みとかもやってみたらいいんじゃないか、って言うんだよね」
キリカは難しそうな顔をした。打ち込み。もともとキリカ、アオイ、サトルの3人は、DTM主体のオリジナルを制作してきた経緯がある。3人の過去の動画を観たが、テクニカルな打ち込みサウンドに合わせて料理をして食べるとか、プラモデルを組み立てて戦わせるとか、マップアプリ禁止で知らない裏路地を歩くとか、意味不明だが楽しい動画だった。アオイが首をひねる。
「打ち込みサウンドを、バンドにどう活かせばいいのかな。それがわからない」
「アオイ、電気グルーヴ好きじゃない。ああいうの、やってみたいんでしょ」
「電気は、あくまでオーディエンスとして好きなんだ。あの世界観は、あの人達にしか出せない。真似をしても仕方ないよ」
けっこうノリでやっているようなイメージのアオイだが、その眼鏡の奥にある眼差しは、よく見ると意外に鋭い。実は音楽性について、けっこう真面目に考えているのかも知れない。
「ミチル先輩は、差別化をはかる事も大事だ、って言うんだよね。例えば3年生の先輩たちの音楽って、メタルとかプログレ系じゃない、ざっくり言えば。ミチル先輩たちの、T-SQUARE直系のポップなフュージョンとは違うでしょ」
「なんかね、聞いた話だけど。過去にはそれこそメンバー間で、音楽的にソリが合わなかったケースもあるみたいだよ」
キリカの情報は誰から聞いたのか不明だが、フュージョン部も過去にはいろんな先輩がいたはずだ。3年のショータ先輩いわく、いま在籍している3世代は、奇跡的なまでにまとまりがあるらしい。中でも突出しているのがミチル先輩たち2年生で、フュージョン部始まって以来、一番まとまりがあるバンドかも知れない、という事だった。
3年生の先輩から見て、自分達はまとまりがあるように見えるらしい。アンジェリーカは、そこまでの確信はない。だが、なんとなくこの5人で、音楽性を一緒に模索している感覚はあった。
「薫くんはどう思う?私たちがどういう音楽をやるべきなのか」
アンジェリーカはサポート役の薫くんに意見を求めた。彼なら、客観的に意見してくれるかも知れない。だが、返って来た答えは素っ気ないものだった。
「うーん。それは、みんなが探るべきじゃないのかな。冷めた言い方みたいで、申し訳ないけど」
確かに冷めている。だが、それはみんなが知っている事だ。薫くんは表面的にも、そしてひょっとしたら中身も冷めているのかも知れないが、クールな性格なりに意見を述べてくれる。
「ただまあ、参考になるかどうかわからないけど。僕は色んなスピーカーを自分で作ってみて、だんだん自分の好きな音っていうのがわかって来た。最初は”高音質”ってどういう事なのか、よくわからなくてさ。作って、色んな音楽を鳴らしているうちに、色付けのないシャープで透明なサウンドが好きなんだ、ってわかって来たんだ」
それは、オーディオマニアの視点からの意見だった。
「色々やってるうちに、見えてくるものもあるんじゃないかな。だから、コピーでも何でも演奏しまくってるうちに、自分達が作りたい音楽が見えて来るかもね」
何だかんだで、薫くんの意見はやはりとても参考になる。何と言うか、アドバイスをするのが上手い。ミチル先輩たちも、市民音楽祭でとても助けられたと言っていた。
そこでふとアンジェリーカは気になった事があり、ひとつ質問した。
「ねえ、薫くんはどういう道に進みたいの?」
何気ない問いかけだったが、それはメンバー全員にとって興味深い話題だったようで、視線は一気に薫くんに集中した。伊達メガネをしていない素顔の薫くんは、珍しく少し動揺した素振りを見せる。アンジェリーカはさらに訊ねた。
「再びステージに立てるようになったけど、演奏する道には進まないの?」
「うん、そうだね…少なくとも、ステージに積極的に立つ事はないと思う」
意外に答えはすぐに返ってきた。どうやら、祖父のようなクラシックギタリストは目指さないらしい。
「けど、スタジオミュージシャンには興味がある」
「スタジオミュージシャン?」
知っているようで、みんなよく知らない仕事だ。
「まあ、要するにレコーディング専門の職業的なミュージシャンだね。バックバンドでステージに出る人もいるけど、基本的には外部のミュージシャンに依頼されて、楽曲のレコーディングに参加するミュージシャンのこと」
「お前もギターは上手いからな。向いてるんじゃね」
サトル君は軽く言ったが、薫くんは笑って首を横に振った。
「スタジオミュージシャンっていうのは、ある意味では最も高度な演奏能力を求められる仕事だよ。当然だ、ポップからロック、ジャズ、フュージョン、歌謡曲からサウンドトラック、CM音楽、録音されるありとあらゆる音楽に即座に対応できなきゃいけないんだ。音楽理論もマスターしてないといけない」
ものすごくハードルが高い。何となく薫くんは出来そうな気もするが、逆に彼は自分にできない事はバッサリ切り捨てそうなイメージもある。
「なんなら、プロデューサーみたいな仕事も向いてそうだけどね。勉強して、結局10年後もミチル先輩たちのプロデュースやってるかも知れないよ」
キリカはケラケラと笑うが、アンジェリーカはあながちそれも無い話ではない、と思う。ものすごく想像ができる。大人になった、相変わらずクールな薫くんが、スタジオでミチル先輩達とああでもない、こうでもないとレコーディングについて話し込む。結局最終的に薫くんが適切な意見を出して、先輩たちがゾロゾロとブースに戻って行く。今やっている事が、そのままこの先も継続されていくような気がした。
「うーん。単純にやってみたい仕事っていう意味では、オーディオ評論家も楽しそうだけどね」
「オーディオ評論家って、何してる人達なんだ」
サトル君は怪訝そうな表情を見せた。確かに気になる。世の中いろんな評論家がいるが、オーディオ評論家とは一体何なのか。
「まあ、要するにオーディオ機器のレビューだとか、音楽のレビューだとか、オーディオの使いこなしだとか、たまに自作スピーカーだとかを記事にしたりだとか。オーディオ全般について、メーカーとユーザーの間に立つって言えばいいのかな」
「…それで食っていけんの?」
全員が思った事を、サトル君は訊ねてくれた。だが、薫くんによれば、オーディオ評論家というのは要するに記事のライターだという。
「この製品はこういう音です、価格を考慮すれば立派な音質です、とか言われれば、ユーザーは買いやすくなるよね。逆に、この製品は面白いけど音質はイマイチです、とか言われれば、買おうとしていたユーザーは考える時間が得られる」
「雑誌で製品のネガキャンするの?仕事来なくならない?」
「うん。2000年に亡くなった、長岡鉄男っていう、ダメな製品はダメってストレートに書いてた伝説のオーディオ評論家がいてね。やるならあの人の路線で行きたいな」
薫くんの製品レビュー。これも何となく目に浮かぶ。それこそ、遠慮なしに書きそうだ。いい物はいい、ダメな物はダメ。どんな書き方をしても、薫くんは周囲を納得させてしまいそうにも思えた。
自分達は、どういう道を歩むのだろう。先輩たちについて話し始めたはずなのに、いつの間にかテーマが変わっていた。それについて考えるのは楽しくもあり、また不安でもあった。