Light Years(80) : It's Magic
その拍手と歓声の圧力は、少なくとも物理的には、横浜赤レンガ倉庫で3万人から受けた圧力を超えていた、とザ・ライトイヤーズの5人は感じた。開放された野外の空間での3万の歓声と、壁や天井で囲まれた体育館の内部での1000人超の歓声では、響き方が違う。薫くんならその音響原理について説明してくれそうだ。
ミチル達がステージに出た瞬間に、いつも校内ですれ違っているはずの生徒達が拍手する。ステージの上と下では、どうやら違う存在になるらしい。今回は一般客、他校生も混じっていて、無数のスマホがこちらを向いていた。
「いつも見てるだろうが、あたし達の顔は」
歓声を届けてくれる生徒達には絶対に聞かせられないセリフをぼやきながら、ジュナが愛機のレスポールの音出しを確認した。放送部が用意したPAスピーカーは、いつか薫くんがステージに用意させた巨大スピーカーに比べると、レンジの狭い音である。けれど、バンド活動する上ではどんなステージ、環境でも演奏できなくてはならない。トップアーティストだって、音割れのひどい市民会館で演奏する事はある。どこの市民会館とは言わないが。
「アンジェ、頼んだよ」
ミチルは、隣でセッティングする1年生のアンジェリーカに声をかけた。入部して1ヶ月かそこらで、1000人超えのステージに立つのも酷かなとは思うが、彼女の演奏はそつがなく安定している。輝きとか、切れはまだ今ひとつだが、安心して任せられる。ミチルは客席から画面が見えないように配置したノートPCの、EWIのサウンド設定を確認した。
そしてゲスト奏者の市橋菜緒先輩はというと、憎らしくなるほど平然としている。この人なら3万人どころか、10万人を前にしても平気なのではないか。ミチルの左右でサックスを準備する二人の生徒に、客席はざわついていた。
『えー、ご紹介に預かりました、当校で細々と活動しております、フュージョン部です』
ミチルのMCに笑い声がもれる。ステファニー・カールソンの前座をやっておいて、何が細々だ。
『ザ・ライトイヤーズなどという呼び名もございますが、本日は文化祭に参加するフュージョン部2年生として、楽しんでやりたいと思います。そして本日のスペシャルゲスト!吹奏楽部のスーパーヒロイン、プリンセス、市橋菜緒先輩!』
その雑な紹介に、菜緒先輩はミチルの後頭部を叩いた。客席から、聞き覚えのあるケラケラという笑い声がする。いつの間にか最前列に陣取っていた、フュージョン部3年生5人組である。1年生に部室前のライブを任せてきたらしい。
ミチルはEWIを構えると真剣な顔に変わり、ドラムスのマーコに合図を送った。マーコのスティックがリズムを取ると、ドラムのフィルインとともに重厚なイントロが始まる。"ルパン三世'89"。ストリングスのパートは、マヤのキーボードでカバーした。ジュナのギターは本来ないパートだが、オリジナルの"ルパン三世'78"を参考に、控えめのジャジーなリフを入れる事になった。クレハとマヤのコーラスは、こっそり合唱部の友人に指導を受けた甲斐があって、そこそこ堂に入ったものに仕上がっていた。
"ルパン三世のテーマ"は劇場版などのアレンジ版は別として、Aメロがサビも兼ねる"AABA進行"となる。"名探偵コナンのテーマ"もこれに近く、こうした構成のスタンダードナンバーを作るのが、ミチルのひとつの夢だった。スタンダードナンバーというのは、演奏していて楽しい。誰にも有無を言わせない名曲、というのは、当たり前の存在のようでいて、実は奇跡的に稀有なものである。
アンジェリーカと菜緒先輩の厚みのあるサックスがAメロを重々しく展開させる。うごめく陰謀と、さらにその背後で暗躍するルパン一味のイメージだ。そこへ、ミチルのEWIから鮮烈なトランペットのサウンドが閃く。電子楽器のEWIから、生と間違うサウンドが聴こえる事に驚く者もいた。現代のコンピューターのアシストによる楽器の再現性は非常に高いレベルになっており、ある意味では科学技術工業高校らしいと言える。
間奏の長めのコーラスで、クレハが誰も気付かないレベルの歌詞の間違いをやらかしたのだが、このとき体育館にいた人間で、それに気付いたのは一緒に歌っていたマヤだけだった。ことにミチルたちは演奏に忙しいので、歌詞にまで気が回っていなかった事もある。ミチルによる間奏の雄大なトランペットは、オーディエンスが思わず聴き惚れてしまうほどだった。それを受けて再びAメロに戻ると、アンジェリーカと菜緒先輩がきっちりと、締め括りにつなぐサックスを聴かせ、コーラスとともに一気に盛り上がって演奏は華麗に終わった。
ミチルたちはお辞儀もせず、演奏を終えたままの姿で静かに立っていた。客席から湧き起こる、土砂流のような拍手と歓声。ザ・ライトイヤーズの演奏を初めて生で聴いた人間も多く、話題だけで訪れた人間もまた、その話題の意味を知る事になるのだった。華麗にして洒脱、とても16歳の少女たちが奏でているとは思えない、ドラマティックなサウンド。
いつ鳴り止むのかわからなかった歓声がようやく終わる頃、センターのミチルはいつの間にか、EWIをアルトサックスに持ち替えていた。実は当初の予定ではここでT-SQUAREの”宝島”を演奏するはずだったのだが、3曲続けてEWIメインになってしまう。菜緒先輩がどうしてもミチルと一緒にアルトを吹きたい、と言ったので、それなら文化祭を雄大に締め括ろうという意味も込めて、市民音楽祭でも演奏した曲に変更にされたのだ。
『"Twilight in Upper West"』
ミチルが一言だけタイトルを言うと、客席にいた年配の男性陣の一部から拍手が起こった。やはり有名なナンバーなので、知っている人もいる。イントロのキーボードが流れた瞬間、メンバーは市民音楽祭のステージを思い出した。
だが、今回はあの時と違う。本来サックスは独奏の曲を、マヤがサックス3重奏にアレンジしたのだ。AメロBメロはミチルの独奏だが、サビで一気にサックスの重奏が入ると、その雄大で重厚な響きに、客席は魅了された。さらに続くマヤのキーボードによるピアノソロは、およそ高校生の演奏とは思えないものだった。市民音楽祭の時よりも、さらにレガートの滑らかさに磨きがかかっている。
ジュナのギターはここでも表には出ず、わずかにディストーションをかけ、あくまでバックに徹したジェントルな響きが、曲の雰囲気をきっちりと盛り上げる。前に出る時は出て、退く時は退く、という事をジュナは数多くの演奏で学んできた。
体育館の外がすでに夕暮れの気配を見せている中、曲は切なくも雄大なサックス3重奏と、マヤのピアノによって締め括られた。しばしの沈黙ののち、体育館が割れるのではないかと思えるほどの歓声と拍手が響く。菜緒先輩は、万感の思いでミチルに肩を寄せて来た。歓声の中、ミチルははっきりと先輩の声を聞いた。「ありがとう。一生の思い出にするわ」と。
サックス3人組が肩を組んで深くお辞儀をすると、再びそれぞれのポジションに戻る。マーコのバスドラムがリズムを刻む中、ミチルは再びEWIに持ち替えた。
『みなさん、文化祭は楽しんでいただけたでしょうか』
さらにリズムは続く。お約束の導入。
『名残惜しいですが、最後の曲になりました』
これは、T-SQUAREのMCの真似である。市民音楽祭でもやった。理由はただ単に、T-SQUAREの真似をしてみたいからという、ただそれだけだ。子供がプリキュアや仮面ライダーの真似をするのと同じで、ミチルはミチルにとってヒーローであるミュージシャンの真似をする。ある意味では、そのために音楽をやっているような気もする。
『一般客の皆さん、今日はご来校いただいてありがとうございました!それじゃみんな、いくぞ―――――!!』
誰もが知っているイントロが流れる。夏からここまで、何度やったかわからない。永遠の名曲、T-SQUARE"TRUTH"。ここでも、ミチルのEWIに合わせてアンジェリーカと菜緒先輩のサックスが重ねられた。全学年による合奏。ミチルはその中間にいる。来年は、菜緒先輩がここに立つ事はない。アンジェリーカは来年、立ってくれるだろうか。ミチルは、まだ見ぬ来年の新入部員と3人で、1年後もここに立ちたいと強く思った。
ジュナのギターソロは、演奏を重ねるごとにレベルが上がって行く。ここでは、ついにマスターしかけているライトハンド奏法で魅せてくれた。いつものようにミチルとジュナは背中を合わせ、互いの鼓動を感じながら、湧きあがる感情を響きに変える。二人の感情がひとつに交わるのを感じながら。
ステージのが一体となり、勇壮なサウンドが最高潮を迎える。いよいよ文化祭が終わる。幕を閉じる役目を光栄に思いながら、7人の演奏が終わった。
『サックス、千々石アンジェリーカと市橋菜緒でした!みんな、どうもありがとう!』
ミチルは両脇の演奏者を紹介しながら、ロングヘアに汗をにじませて頭を下げる。ステージの全員もそれに続いた。果てしない、怒涛の拍手と歓声の中、ステージの照明が落とされた。
そこで予想していた事だが、やはりお約束のコールが巻き起こった。
『アンコール!アンコール!』
やっぱりきたか、と7人は視線を合わせた。ミチルはマヤに向かってニヤリと笑う。最初から、この事態は想定済みである。問題は、学校が許可してくれるかだが―――
そう思った時、舞台の袖に意外な人物がいた。42歳にしてすらりと見事なボディラインを保つ、理工科の清水美弥子先生だ。先生は大きく腕でマルを作り、次にOKサインをしてみせたあと、指を一本だけ立てた。要するに、1曲だけならやっていいよ、ということだ。おおかた教頭あたりから、事前に許可を貰ってくれたのだろう。クールなようでいてお節介、まるでどこかの先輩のようだ。
再びステージに照明が灯る。市民音楽祭の光景が、ここでもフラッシュバックした。再び、マーコのドラムがリズムを取ると、コーラスのエフェクターをかけたジュナのギターがイントロを奏でる。やはりT-SQUAREの"It's Magic"。これも音楽祭やら何やらで何度も演奏した。ミチルは思う。いつか自分達も、こんなふうにステージを締め括るようなナンバーを作りたい。偉大なミュージシャンたちのように。自分達は、どこまで行けるだろうか。
久しぶりにコピーナンバーをステージで演奏して、ミチルはその気持ちに立ち返る事ができた。憧れの気持ちを捨てては、音楽は続けられないだろう。憧れる存在に出会えたのは、幸運だ。
ミチルは再び、ラッカー仕上げのサックスを手にしてメロディーを奏でた。Aメロはミチル、Bメロはアンジェリーカと菜緒先輩、そしてサビは3人で。ミチルは菜緒先輩と、二人でひとつのマイクに向かって吹いた。二人の音色が溶けあう。先輩とは色々あったけれど、これで総決算、本当の意味で仲直りができた。それだけで、このステージに立って良かったとさえ思う。
今度こそ全ての演奏を終え、ミチルはマイクを握った。
『サックス市橋菜緒!文化祭サイコー!みんな気を付けて帰ってね、バイバーイ!!』
勢いでめちゃくちゃな締めになったが、みんな盛大な拍手で返してくれた。アンコールは再び起こったが、頭を下げ続けたあと、心でごめんなさいと言いながら袖に歩いてゆく。やがて客席側にも照明が灯され、実行委員会の司会がステージに上がると、ようやく諦めてくれた。
『はーい、みなさん本当にお疲れ様でした!これにて文化祭、全ての出し物が終了になります!一般客の皆様、本日はご来校いただき…』
司会の声が聞こえる中、ミチル達は満たされた気持ちで校舎裏手に回り、暗くなり始めた中をいったん第二部室に戻って、バスタオルで汗を拭いた。入ってすぐ、青いクーラーボックスにユメ先輩の字で貼り紙がしてあるのに気が付いた。
『私達が買ってあげたドリンクなのでありがたく頂くように』
先輩らしい。あとでしつこいくらい、お礼を言ってやろう。中を開けるとコーラにポカリ等々のボトルが氷で冷やされていた。
「みんな、お疲れ様ー。ユメ先輩たちのお金だから遠慮なく飲んで」
ミチルもミチルで容赦がない。めいめいが好きなドリンクを手にしたところで、ミチルが音頭を取った。これもなんだか久しぶりの感覚だ。
「えー、たった4曲でしたが、みんなのおかげで演奏し終える事ができました。それに今日は、菜緒先輩も一緒に演奏できたので、とても思い出に残るライブになったと思います。準備からここまで、ほんとにお疲れ様でした。それじゃ、カンパイ!」
「かんぱーい!」
炭酸のガスが抜ける音が、スピーカーの林立する第二部室に響く。ミチルがポカリを半分くらい一気に飲んだところへ、コーラを手にしたジュナが絡んできた。
「ミチル、お前菜緒先輩と近すぎじゃなかったか」
「何よ。妬いてんの?」
ミチルがボソリと返すと、ジュナがいきなり顔を近づけてきた。
「誰が!」
「あーもー、コーラで酔っ払うんじゃない!」
ミチルのツッコミに全員が爆笑した。菜緒先輩も、こんな風に笑うんだと思えるくらい笑っている。ジュナは面白くなさそうにそっぽを向いてコーラを飲み干した。菜緒先輩は、笑いがこらえきれない様子だった。
「妬かせちゃったみたいね」
「ほっといていいですよ。明日になればケロッとしてますから」
「羨ましいわ。あなた達みたいに、ステージ上に相棒がいる人が」
少し切ない表情で、菜緒先輩は言った。ミチルは思う。この人は、ひょっとしたら孤独を抱えていたのかも知れない。この人と対等に語り合える友人は、いったい何人いるのだろう。佐々木ユメ先輩くらいではなかったのか。
「あなたのギターも素敵だったわ。またいつか、一緒に演奏できるといいわね、ジュナ」
先輩はそれまで”さん”を付けていたジュナを、突然呼び捨てにした。ジュナが珍しく慌てふためいている。それが可笑しいのか、またみんなが笑った。菜緒先輩は、少し切ない笑顔を向ける。
「来年の文化祭も、きっと来るわ。その時は、あなた達の番かも知れないけれどね」
そう言って、菜緒先輩はアンジェリーカの肩をポンと叩いた。来年の今ごろは、フュージョン部のメインはアンジェリーカたちの学年のはずだ。その頃には、きっとバンドとしてまとまっているだろう。そのためにも、教えられるだけの事を教えてやらなくてはならない。
そして1年後、自分達はどうなっているだろうか、とミチルは思う。高校2年生にして、ミチル達は思いもよらない出来事の連続のすえ、”ガールズフュージョンバンド”として異例の存在になりつつある。だが、自分達はここから、どこに行くのか。それは、5人にとって不安に満ちた問いだった。
ザ・ライトイヤーズは、どこに向かうのか。5人は、いつまでも5人でいられるのか。その答えを、これから見付けなくてはならない。長い航海の始まりの時が、少しずつ近付こうとしていた。