Light Years(89) : OVERNIGHT SENSATION
「うおお、いい匂い!」
「うーん、すばらしい」
セミナーホールの食堂のドアを開けるなり、サトルとユメ先輩が喜色満面で声をあげた。その後ろから、鼻をヒクヒクさせて薫が入ってくる。サトルと薫は実習用の水色の作業服を着込んでおり、体育館での設営から直接ここに来たらしい。なんとなく明和電機っぽい。
「お疲れ様。ほら、座って」
ミチルが椅子を引いてやると、男子2人は遠慮なく着席して、食堂に充満する香りを吸い込んだ。薫が一言訊ねる。
「カレー?」
「これでカレーが出て来なかったら暴動もんだろ」
ジュナはサラダの入ったボウルを置くと、厨房に向かって言った。ユメ先輩は、ミチルがわざとらしく花まで飾った特等席である。
「おーい、全員揃ったよー」
「はーい」
厨房から、1年女子の甲高い声が返ってくる。ほどなくして、アオイ達と一緒に理工科の清水美弥子先生が、カレーライスが盛られた皿を持って給仕に現れた。
「先生は座ってればいいのに」
ミチルが言うと、年に何回見られるかわからないジャージ姿の清水先生はニコリと笑った。
「この歳になると、こういう場でおとなしく座っていられなくなるの」
サトルと薫は、運ばれてきたカレーを見る。何の変哲もないカレー、と言いたいところだが、ふつうの家庭でだいたい入っている物が見当たらないことに気付いた。
「ジャガイモ入ってないんだ」
「ビーフカレーだもの。ほんとはニンジンも入れない予定だったんだけど、さすがに彩りがないかなと思って」
クレハに座ってなさいと言われたミチルは、おとなしく薫の正面に座った。
総勢13名にメインのカレーが行き渡ると、賑やかな夕食はバンドリーダーのミチルの挨拶で始まった。ミチルは勿体ぶって立ち上がると、全員を見渡した。
「えー、翌朝のライブ配信に協力してくれるみんなに感謝します。起きるの早いですけど、よろしくお願いします。それじゃ、いただきます」
なんとなく欧米ぽいスタイルだなと思いながら、みんなで「いただきます」をした。
サラダはルッコラ、ブロッコリー、ポテト、トマトにカリカリのベーコンを、バジルとレモンとオリーブオイルのドレッシングで。実はドレッシングもカレーも、元ホテル料理人のミチルの叔父さんから教わったレシピである。
「どうりで美味しいはずだ」
マヤが神妙な顔でカレーを味わっていた。しかし、叔父さんの喫茶店のビーフカレーの簡略版なので、お店で食べるものと味は違う。2児の母親である清水先生も唸っていた。そのあと、好きなメニューの話で盛り上がり、リアナがアンジェリーカに訊ねる。
「ねえ、アンジェリーカのお母さんはロシアの人なんでしょ。ロシア料理作ってくれるの?」
すると、それまであまり会話に入ってこなかったアンジェリーカがスプーンを手に持ったまま答えた。
「ええ。日本でもわかりやすいメニューだと、ボルシチとか。私が好きなのは、サリャンカっていうトマトベースの酸っぱいスープ。私もある程度は作れるよ、教わったから」
「そういえば、みんなは料理できるの?」
清水先生の質問に、ミチルやマーコが「まあまあ」「食べても死なない物を作れる程度には」などと答える中で、渋い顔をしているのが数名いた。ジュナ、ユメ先輩、そしてなぜかサトルである。
「ジュナは、いっぺん真面目に料理勉強した方がいいよ」
マヤは真顔だった。どうも、料理下手なのを本気で心配しているらしい。ジュナは「ふん」と返す。
「そのうち覚えるよ」
「そうこうしてるうちに、ハタチ過ぎちゃうよ。よし、わかった。このライブ終わったら、勉強しよう」
「いいよ!美味しいもの食べてる時にそういう話は!」
ジュナとマヤのやり取りに、清水先生が笑う。
「あはは、仲いいのね、あなた達」
「ぜんぜん」
ジュナはグラスの水を飲んで明後日の方を向く。実のところ出会って本当に最初の頃は、確かにジュナとマヤは微妙にソリが合わなかった、とミチルは記憶している。それがいつからか、自然に会話できるようになっていったのだ。二人の間で何があったのかは、ミチルにもわからない。
ふと、ミチルは斜め向かいのサトルが、クレハと何やらベースについて話しているのに気付いた。男子はたいがいクレハと面と向かうと、あまりに美少女なので照れ気味になるのだが、サトルはそれが全くない。二人のトークが途切れた頃合いを見計らって、ミチルは訊ねた。
「ねえ、サトルってひょっとしたら、お姉さんいる?」
「えっ、なんでわかるんすか」
やっぱりか。
「ええ、上に2人の姉貴がいます。22歳と18歳」
「どうりで、なんか女の子慣れしてるなって思った。緊張する様子なかったもんね、最初に部室にやって来た時から」
すると、隣のキリカがボソリと言った。
「中学の時、その軽すぎるノリで同級生に告って玉砕してますけどねー」
「言うなよ!!」
「女に慣れすぎてて、逆に距離感がわかってないんです、こいつ」
「やめろよ!!」
ふだん飄々としているサトルが、慌てふためく様は可笑しかった。こうして見ると、キリカに対してだけは微妙に頭が上がらないように見える。人間関係もそれぞれだな、とミチルは思った。こうして、みんなで食事をして語らうのも、きっと思い出になることだろう。
夕食が終われば、すぐに翌朝のリモートライブの準備だ。リハーサルのあと、すぐに演奏できる状態にして就寝。午前2時半には起床する予定なので、睡眠時間はろくに取れない。ライブが終わったあと、1時間だけでも仮眠を取る予定ではいるが、朝食だって摂らなくてはならないので、まとまった睡眠は取れないものと覚悟するべきだろう。ハードな1日になりそうだった。
楽しい語らいの後は、ミチル達は目まぐるしく動いた。みんなで一斉に食器を片付け、機材を設置した体育館に移動する。楽器と音響関係の設置はほとんど完了しており、あとは音の調整と、配信映像および音声のチェックだった。10時過ぎには一度マイアミの現場につないで、向こうのスタッフとリモートで事前チェックもしなくてはならない。
カメラは放送部が回してくれたものを使うが、アオイとキリカは何の迷いもなく操作していた。さすがだ。
「よーし、じゃあ1曲やって問題ないかチェックするよー」
ミチルの号令で、ジャージを着たステージ上のメンバーが頷いた。ザ・ライトイヤーズの5人プラス、リアナとアンジェリーカの7人バンドだ。
「薫は音響のチェック頼むねー。映像チーム、いい?」
ヘッドホン、イヤホンをつけたアオイや薫たちが、マウントラックやカメラの前でOKサインを作ってみせた。
「んじゃ、いくよー」
ワン、ツー。いつものようにマーコがスティックでリズムをとり、演奏が始まった。もう、自分たち以外の生徒はいない、夜の学校の体育館で、カメラに向かって演奏する。オーディエンスはいない。強いて言えば、体育館の隅で見守るユメ先輩と、清水先生だけだ。
人のいない体育館は、音響的にはやりづらい筈だ。案の定、波形をチェックする薫が渋い表情をしている。前回は高品位な超大型スピーカーをモニターに使えたが、今回は新品ではあっても、普通のPAである。薫が、手を振ってストップをかけた。それを受けてミチルがメンバーの演奏を止めさせる。
「どうしたの?」
「ごめん。やっぱりサックス、ドラムス以外はラインを使う。マイクだと反響だらけで、まともな音にならない。サトル、ちょっと」
薫が指で合図すると、サトルが駆け寄って何事か打ち合わせを始めた。ふんふん、と頷くと、2人はミキサーの配線を直し始める。
薫はライブ感を出そうと、マイクで拾った音を配信するつもりだったらしい。だが、考えてみればマイアミ現地のライブ会場でも、PAを通して音が出る事になる。そうなると、体育館のPAからマイク、マイクアンプ、ミキサー、オーディオインターフェイスを経由して、さらにもう一度PAを通る事になるため、音は一気に劣化してしまう。それならラインを優先してクリアな音を届けるべきだ、と考えたのだろう。
セッティングを変えた音に、薫は満足そうに頷いた。薫がOKなら問題ないだろう。そうこうしているうち10時を過ぎたので、クレハが予定通りマイアミに連絡を取り、テストでこちらの映像を向こうの会場につなぐ事になった。
オンライン通話で映ったマイアミの様子は、"マイアミ"という単語から連想されるイメージと、コンマ1ミリメートルもズレてはいなかった。青い空と海、緑の木々。だが、ライブ会場となるベイフロントパークは、何となく地面が濡れているように見えた。
『ハロー、ガールズ!会えて嬉しいよ、俺はリカルドだ!』
ウインドウに現れたヘッドセットの男性は、サングラスをしたマイケル・ムーアのクローンにしか見えない。クレハは睡魔に耐えつつ応答した。
『ハロー、初めまして。私はクレハ、ザ・ライトイヤーズのベースと…今は通訳スタッフです』
『ハッハッハ!』
マイケル・ムーアもといリカルドさんは、何がおかしいのか、大笑いしてくれた。
『俺も日本語は、"ハラキリ"と"ニンジャ"しか知らないからな、おあいこだ!』
ミチル達が全員睡魔と戦っているところに、絵に描いたような陽気なアメリカ人スタッフの笑い声が響く。勘弁してくれと思い始めたところで、マイケル・ムーアのクローンはようやく本題に入ってくれた。
『ようし、それじゃさっそく始めよう。指定したストリーミングサーバーのアドレスは確認したか?』
『はい』
『ようし、それじゃエンコードした映像と音声を送ってみてくれ』
言われたとおり、クレハが入力したストリーミングサーバーのアドレスに向けて、現在ステージ上にいるミチル達の映像が送信された。ほどなくして、リカルドさんから自信に満ちた声が返ってきた。
『ようし、OKだ。映像は問題ない。音を出してみせてくれ』
「ミチル、音出しお願い」
クレハの指示で、ミチル達は適当に楽器を鳴らしてみせた。マーコが眠そうな目で、16ビートらしきリズムのドラムソロを叩く。
『OK、OK。問題ない。ずいぶんクリアな音だな。まるでプロの音響みたいだ』
その言葉に、クレハはハッとさせられた。どうやら、薫くんのミキシングと調整は、プロの音響スタッフも納得がいくものだったらしい。
そのあとリカルドさんの指示でいくつかのチェックが行われ、問題ない事が確認された。映像はパソコンのブラウザでも、スマホやテレビでも問題ないとの事だった。
『OKだ!後は君達が、演奏中に居眠りしなければ問題ない!』
そのリカルドさんの言葉に、脇で聞いていた清水先生が吹き出した。ミチルは何を言われたのかわからない。”OK”だけは聴き取れたので、OKなのだろう。
『ところで、リーダーの耳はもう大丈夫なのか?』
リカルドさんは、ミチルの耳の状態を確認してきた。どうやら、向こうでも心配されていたようだ。クレハが現在は問題ないと伝えると、安心した表情を見せた。
『良かったよ。まさか、聴覚障害医療のチャリティーコンサートで、アーティストが聴覚障害に陥るとはね。いや、実のところ俺たちも、心配していたのはもちろんだが…なんてシンクロニシティだ、と言い合っていたんだ』
シンクロニシティ。ユングだか誰だかが言い出した、意味のある偶然の一致、とかいうあれだ。確かに今回の事は、偶然にも程がある。治ったきっかけもまた、猫に引き寄せられての結果というのも不思議だった。クレハは念のため、まだ医者によって完治を宣言されたわけではない事を伝えた。
『なるほど、わかった。完治している事を祈るよ。それじゃ、何か君たちから要望はあるかい』
リカルドさんからの質問を、クレハはメンバーに通訳した。しかし、今さら要望と言われても、特に何も出てこない。
そこで、ミチルが何の気なしに、ある冗談を言った。クレハがそれを翻訳すると、リカルドさんや画面の奥にいる他のスタッフは最初は大笑いしていたが、突然神妙な顔付きになり『ちょっと、接続したまま待っていてくれ』と言って、ウィンドウの外に出て行ってしまった。横幅の広い人物がいなくなると、画面には広い野外ステージがよく見えた。何人ものスタッフが忙しなく動いている。
何だろうと思っていると、リカルドさんは誰かに頷きながらチャット画面に戻ってきた。
『お待たせした。…ええと、急場で申し訳ないんだが、ちょっと提案したい事がある。5分くらいの演奏を、追加する事はできるかい』
『5分?』
クレハは訊き返した。どういうことだろう。
『君たちの持ち時間を、5分だけ延長する許可を取ってきた。その延長時間に、5分くらいの曲を、何でもいい。演奏して欲しいんだ』
『それひょっとして、さっきミチルが言ったジョークと関係してますか?』
『その通りだ』
リカルドさんは真面目な表情で答えて、何を考えているのかを説明してくれた。ミチルが言い出したジョークが、現地のスタッフ達には立派な「アイディア」として、とても真剣に受け取られた、という事らしかった。
『君たちは普通に演奏するだけでいい。その先の事はこちらでやる。ただ、その…こういう形で演奏させるのは、アーティストにとっては侮辱と受け取られるかも知れない。それでも、引き受けてくれるだろうか?』
リカルドさんの言葉を、クレハはそのまま翻訳してメンバーに伝えた。だが、ノーと言う者はいなかった。現場の人達の意図を理解したミチルは答えた。
「むしろ、面白いわ。やる意義はあると思う。5分やればいいのね。任せて、って伝えて」
「わかったわ」
クレハは、代表のミチルの言葉をリカルドさんに伝えてくれた。リカルドさんはサングラスに太陽を反射させて微笑んだ。
『ありがとう。それじゃ、こちらで午後2時30分…君たちの国の時間で言えば、翌日の午前3時30分くらいの時間に、もう一度こちらに連絡をくれ。直前の通信チェックを行う。それじゃ頼んだよ、ザ・ライトイヤーズのみんな!』
リカルドさんはまた陽気な調子に戻ると、通信を切った。チャットが終わって、深夜の体育館はしんと静まり返る。もう、時刻は10時30分を過ぎていた。
「ホントにやるのか、さっき言ってたの」
ジュナが呆れたように訊ねた。さきほどリカルドさんが持ち掛けてきたアイディアは、それくらい突拍子もないものだったからだ。ミチルは、メンバーに微笑んでみせた。
「もう、やるって言っちゃったんだから。セトリにない曲で5分あるやつっていうと、マヤ」
「"Friends"一択ね」
「うん。よーし、それじゃ寝る前に一回だけ確認の演奏しておこう。バンドメンバー以外は、シャワー浴びてさっさと寝る!2時半起床だからね!」
何だかんだでミチルはやはり”フュージョン部の部長”である。ミチル達が追加曲の演奏をチェックするのを聴きながら、リアナとアンジェリーカを除く1年生はパソコンや映像機材をシャットダウンし、ゾロゾロとシャワーを浴びるために体育館を出て行った。ユメ先輩と清水先生もその後をついて行く。
そのあと、演奏チェックを終えたバンドメンバーはセミナーホールに戻り、備え付けのシャワーで1日の汗を流していた。もう11時近い。最後に浴びるメンバーはミチルとジュナとなり、ミチルは大きくあくびをした。
「大丈夫かよ。冗談抜きで、演奏中に寝るんじゃねーぞ」
隣で汗を流すジュナも、そう言いながらすでに眠そうだ。自宅で寛いでいるならともかく、学校が終わってからずっと動きっぱなしだったのだ。
「さっきクレハとすれ違ったけど、あいつまたバスト大きくなったんじゃないのか」
「大きいのは認める」
「バストの話をすると、マヤのやつが渋い顔するんだけど、別にあいつが小さいわけじゃないよな。クレハっていうベンチマークが大きすぎるんだ。…マーコは背丈相応、あれでいい」
多少気を遣ったつもりだろうが、だいぶ失礼な言いようである。ベンチマーク。本来は測量の基準値という意味だが、最大のバストを持つクレハをベンチマークとするのは正しいのかどうか、科学技術工業高校の生徒としては悩む。そして、逐一メンバーのバストサイズをチェックしているジュナもどうなのか。
「1年生のバストはまだよくわかんないな。リアナとアンジェリーカはあると思う。アオイとキリカはそうでもない」
「あんた、眠くなって変態トークに磨きがかかってきてるわ」
「誰が変態だ!」
ジュナは水滴を髪に滴らせたまま凄んできた。ヘッドバンドを外しているので、いつもと違って見える。そして、当人に自覚があるかどうかは知らないが、ジュナ自身結構バストはある方なのだった。
「さあ、歯磨いてさっさと寝るぞ。今からいったいどんだけ寝られるんだ」
お湯を止め、二人はシャワールームを出た。2時半起床。3時間寝られればマシだろう。冷蔵庫にはステージメンバー全員分のレッドブルが冷えている。いよいよ地球の反対側、マイアミに演奏を届ける時が近付いてきた。