Light Years(44) : Forgotten Saga
市民音楽祭のラストでアンコールが起こるというのは、信じ難い事ではあるものの、数十年の歴史の中で初めてだという。しかもプロではなく、女子高生のフュージョンコピーバンドである。深いお辞儀のあと、袖に引っ込んだミチルたちを迎えたのは、労いの言葉ではなくオロオロするスタッフだった。
予定では、生演奏は19時5分あたりを目処に終了し、あとは静かなジャズ等のBGMを流して、20時で音楽祭全体が終了という流れである。
だが、今こうして二度もアンコールが起きている。ミチルたちは楽屋にへたり込み、水分補給と体力回復に集中していた。
「どうすんの、これ」
参謀マヤが早々にサジを投げて、ミチルに問いかけた。ミチルはスポーツドリンクを一気に飲み干して、汗を吸った長い髪をタオルで拭いている。
「…まあ、あと1曲は保険でやるつもりではいたけど」
ミチルが言う「けど」の意味は全員わかっている。1曲やった程度では、このアンコールの大きさには不釣り合いなのではないか。ステージの照明はいったん落とされたが、機材はまだそのままスタンバイしている。ミチル達の体力さえもてば、続行は可能である。
だが、さすがにいくら若いといっても、体力は当然無限ではない。演奏中に倒れでもしたらどうするか。メンバーが考え込む中、ふいに楽屋をノックする者がいた。スタッフだろうか。
「どうぞー」
力無くミチルが声をかけると、現れたのは意外な二人組だった。一人はユメ先輩、もう一人は薫である。先輩は少し心配そうにメンバーを見やった。
「みんな、大丈夫?」
「…生きているという意味では」
「ジョークをたたく余裕はあるのね」
ユメ先輩は、笑って一緒に座り込んだ。薫は立ったままだ。
「あと1曲なら予定してたんですけど」
「そうね。アンコールが大きすぎる」
ミチル達の心情は、3年生達もわかってくれているらしい。
「…はい。けど、2曲以上やって体力が保つかどうか」
「本当に怖いのは、体力が保つかどうか、ではないんじゃないの?」
その先輩の一言で、ミチル達はギクリとして黙り込んだ。まさにその通りだったからだ。体力云々は、ある意味で誤魔化しである。
「このまま行けば、自分達はどこまで行く事になるのか。それが怖いんでしょ」
さすがに先輩だ。何もかも見抜いている。そうだ。プロになりたいと口にはしたが、こうして予兆めいた事態になると、その先に何が起きるのか、考えるのが怖い。
"なってしまう"のではないか。
だが、ユメ先輩は切なげに笑ってみせた。
「その先に何が起こるかなんて、私にだってわからないわ。けどね、ミチル。これだけはわかる。今、このアンコールにきちんと応えなかったら、後悔するよ」
それは、ビル解体のスチールボールのように、ミチル達の胸にズシンと響いた。
「時には、目の前の事だけを単純に考えなさい。後の事も、前の事も、考えなくていい」
「…はい」
「この村治くんが、最後の1曲を選んでくれたわ。あと2曲、やれるわね」
ユメ先輩は、ミチルの汗がにじむ肩をガッシリと掴んだ。先輩のパワーが流れ込んでくるようだ。
「…やれます。やります」
ミチルが頷くと、他のメンバーも頷いた。ユメ先輩は、微笑んで薫と交替する。
「ミチル先輩、まだやってないスクェアのナンバー、あるでしょ」
「え?」
「和泉宏隆の名曲だよ」
薫くんは、スマホの音楽アプリを開いて、ストリートライブでも一度もやっていない、名曲中の名曲を示してみせた。
「やれる?」
「…やれる。でも、どうして今までこの曲を忘れていたんだろう」
「この時に取っておくように、神様が仕向けたんじゃないかな」
その意外なセリフに、ミチル達は笑った。どこかクールな薫が、神様なんていう概念を持ち出したのが新鮮だったからだ。
ミチルは、欲が出たのか注文を出した。
「間が空いちゃったから、もう1曲追加しよう。TRUTHの前に何か、つなぎになる曲ないかな。もうスクェア縛りでいいからさ」
「うーん」
薫は相談を受けて、すぐに答えを出してきた。
「じゃあもう、思いつきで決めるよ」
スタッフに残り"3曲"だけやる事を告げると、まるで10年もやってきたかのように悠然とした様子で、ミチル達はステージに戻って行った。照明が戻って、そこにミチル達が立っていた時、客席からは歓声が上がった。さすがに小さな親子連れはもう帰ったようで、席もいくつか空きが出来ていたが、そこへ立ち見勢が入って結局埋まってしまう。
『まだ16年しか生きてませんが、何が起こるかわからないものです』
ミチルは、半笑いでマイクに向かった。客席からも笑いが起きる。
『もう少しだけ、お付き合いください』
それだけ言うと、曲紹介なしでミチルはジュナに合図した。ジュナは少しだけ緊張の面持ちで、テレキャスターのカッティングを奏でる。ついこの間、学校で演奏した"Control"のイントロだ。
中年の男性が弾いたほうが様になるような古いナンバーだが、女子高生が今のサウンドで弾くと、まるで現代の曲に聴こえる。わりかし有名な曲なので、客席にも知っている人はいるようだった。学校で弾いた時はリズムを合わせるのに苦労したが、今はほとんど苦もなく合わせられる。ひたすら数をこなした事で、5人はいつの間にかリズムの一体化を身に着けたようだった。
曲の終わりとともに、間髪入れずマーコが150bpmのリズムでバスドラムを入れる。原曲は156bpmだが、それより少しだけ遅い。ジュナはテレキャスターからレスポールに持ち替え、オーバードライブ、ディストーションの効き具合をさり気なくチェックした。リズムが続く中、ミチルはマイクを手にした。
『今日は、今までバンドやってきて一番楽しい日でした』
疲れが感じられる、ミチルの声が低く響く。
『これだけ何曲もSQUAREを演奏しておいて、この曲をやらないで帰るわけにはいきません』
その一言で、客席の主に40代以上の男性客が盛り上がる。ミチルはEWIをしっかりと握り、マイクに叫んだ。
『今日は本当にありがとうございました。それじゃみんな、いくぞ――――!!!』
ミチルの掛け声とともにマヤのキーボードから、およそ日本人で聴いたことがない人はいないのではないか、というイントロが流れる。マーコのドラムスが8ビートを刻み、クレハのベースとジュナのギターが絡み合う。やがてミチルのEWIが、勇壮なフレーズを奏でる。T-SQUARE永遠不滅の名曲、"TRUTH"だ。
スクェアが仮にフュージョン史において特異な存在であるとするなら、その中でも特異を極めるこの曲が代表曲というのも、このグループらしい特徴といえる。フュージョン部の卒業した先輩の一人は、日本の音楽的土壌が海外とは全く異なるひとつの証明となる曲、と評していた。
前半のサビが終わり、ジュナのギターソロが唸りを上げる。そこから切れ目なくシンセのソロに移行した。ここには面白い逸話がある。以前、何がどうしたのかミチル達は、ギターの後のソロはウインドシンセだと思い込んでいて、ミチルは当然ジュナの後にEWIでソロを吹いていた。
しかしある日3年生の前で演奏した際、「そこのソロはウインドシンセでなくシンセだ」という真実を先輩から指摘されたのだ。ラストにも長いウインドシンセのソロがあるので、それまでミチルだけが一人頑張っていた事がわかり、部室が爆笑に包まれたのはいい思い出だった。
ラストのソロを、ミチルは汗が流れる中で必死に吹いた。限界まで吹いたあと、マヤを振り向いてソロの終わりを告げると、マヤがキーボードを奏でる。最後は全員で音の洪水を生み出し、一斉に締め括られた。
客席からは、圧巻の拍手と歓声が湧き起こった。ミチル達は、その音を全身で受け止める。夏の微風と、歓声の向こうに広がる街の影、灯り。いつも見慣れているはずの都市が、まるで幻想の都市に思える。
その時ミチルは、不思議な感覚にとらわれた。
この都市もいつか、遠いいつか、消えてなくなる。あの歓声を送る人々も、ここにいる自分達も、いつかはあの夜空の星になる。
この世界には、忘れ去られた物語が、数え切れないほどあるに違いない。それは一篇の詩であったかも知れないし、一幅の絵画だったかも知れない。あるいは、ただ一人の人間の、何の変哲もない慎ましい人生だったかも知れない。狭い地下室で育まれた、反逆者たちの結束であったかも知れない。
誰にも知られる事のなかった、数多くの神話がある。それは確かにそこにあった。百億の人間に語られた神話も、孤独に紡がれた一つだけの神話も、等しく確かにそこにあったのだ。
ミチルたちの神話はどこに行き着くのだろう。ミチルは歓声が轟く中、神話を紡ぐ語り部のように、EWIをラッカー仕上げのサックスに持ち替え、マイクに向かって一言だけ言った。
『全ての、忘れ去られた、小さな物語のために』
マヤのピアノが、星の煌めく空に美しく響く。その旋律にのせて、ミチルのサックスが、最後の曲の主旋律を紡いた。”Forgotten Saga”。和泉宏隆作曲、屈指のバラードナンバーだ。
5人の音がひとつに融け合って、切なく雄大な調べは夏の夜空に響き渡った。サックスからピアノへ、ピアノからサックスへと旋律は引き継がれ、ジュナのギターがその背後で、どこか寂し気に鳴いていた。クレハのベースは優しく、マーコのドラムスは密やかだった。華やかな祭りの、終わりを告げる別れの歌だ。客席の人々は、本当にこれで終わりなのだ、ということを実感した。
サックスが切なく別れのメロディーを響かせて、ゆっくりと、静かに、演奏は幕を閉じていった。
惜しみない拍手の中、ザ・ライトイヤーズの5人は、深く、深く頭を下げる。ジュナは、ミチルの鼻の頭から、涙が伝って落ちるのを見た。だが、今夜ばかりは泣き虫と責める事はできなかった。彼女の瞳もまた、内側からの気持ちを押しとどめることはできなかったからだ。
今度こそ本当に、ミチルたちの長いライブは終わった。役割を終えた照明が落とされ、ミチル達は涙でぐしゃぐしゃの顔を客席に見られないように、歓声の中を足早に楽屋へと戻って行った。
楽屋の手前で待っていたのは、総勢13人の拍手だった。フュージョン部の後輩たちと先輩たち。顧問の竹内先生と、クレハの付き人のタカナシさん。そして。
「お疲れ様。素晴らしかったわ」
なんとそれは、理工科の清水美弥子先生だった。
「いつから、いらっしゃったんですか」
「ご挨拶ね。最初からいたのよ。まあ、端の立ち見だったから気付かなかったかも知れないけど」
清水先生は、いつものスーツからは想像もつかない、シンプルな半袖にスリムパンツという服装だった。先生は、自らのハンカチでミチルの涙を拭ってくれた。
「来年は、私も参加しようかしら。あなた達の演奏を聴いていたら、そんな気持ちになったわ」
「ぜひ、出演なさってください。必ず聴きに来ます。来年は、この子たちの番ですし」
すると、サトルが「何言ってんすか」と言い捨てた。
「先輩たちのムチャブリで、俺たちもうフライングで出演しちゃったじゃないすか」
その一言で、狭い通路は爆笑に包まれた。
「助かったわ、おかげで。なんでも食べてちょうだい。私たちの顔パスだから」
「なら、早く着替えてきてくださいよ!もう終わりまで時間ないっすよ」
「あっ、そうだ!」
ミチル達は時計を見た。アンコール曲を追加してしまったおかげで、時間が押してしまったのだ。残された時間で、運営がおごってくれるという屋台の食べ物を食べ尽くさなくてはならない。
「みんな、いくよ!」
ミチルたちは、ステージに向かうのと同じ真剣さで、着替えるために楽屋に戻った。今の演奏で、何キロかやせた気がする。水分も、どれだけ出て、どれだけ補給したのかわからない。飲んだそばから汗になった。着替えの時は、みんなの身体に衣装が汗で貼り付いていて、凄まじい事になっていた。汗を吸ってもはや重量物と化した衣装をバッグに押し込み、ミチル達は楽屋を飛び出した。
運営の好意で、機材は楽屋に保管してもらえる事になった。音楽祭が尻すぼみで終わるのを阻止したばかりか、感動的なエンディングを演出してくれたミチル達に、運営代表からじきじきにお礼まで伝えられた。
その夜は、ミチル達にとって忘れられない夜になった。疲れた身体を押して、先輩や後輩と、心ゆくまで食べて、飲んで、語り合った。それまであまり接触がなかった、3年生と1年生の自己紹介も果たす事ができた。学校であった一連の出来事、それぞれの好きな音楽、今日のライブ。ギターの弾き方。
ミチルは会場を巡っている間、何人かの同世代の女の子から握手を求められた。ジュナが「なんでミチルだけなんだ」とぼやいていた顔も、記憶に残ることだろう。
ミチル達にとっては、その夜は自分たちだけのものだった。だが、みんな忘れていた。毎年、このイベントは総集編として後日、テレビに放送されるのだ。最後のミチルたちの演奏が、放送されないはずはない。それがどんな意味を持つのか、その時のミチル達には知りようもなかった。知りもしない先の事より、喉を潤してくれる紙コップのコーラの方が、今は重要だった。