手のはなし
娘の小さな手の思い出話。
0.0
しおしおとして、触れると壊れてしまいそう。小枝のようだった。ふるふると震えるのは、この小さな娘か、私か。脆く崩れそうで、触ってもいいのだろうかと迷う。自分の子どもなのに。息を吐き、ゆっくり、右手の人差し指で肩を撫でる。あたたかい、ちいさい、生きている。大きく泣くたび、ぐっと力を込めるこぶしの関節がじんわりと白く滲み、ただひたすらに、命を感じる。
0.1
泣いている子を胸に抱き、うつらうつらとしていた。鳥のさえずりが聴こえ、カーテンから漏れる光に顔を歪めた。朝が来た。まだ暗いうちからずっと泣き止まない。なんでだろう。なにが辛くて、泣いているのか。これでいいんだろうか、何をしても不安ばかりが胸を覆う。きっと私が悪いんだろう。でも何が悪いのか分からない。ごめんね。小さな手をそっと指の背で撫でていると、その手がぎゅっと、私の薬指を掴んだ。
0.2
結局、慣れることはなかった沐浴を終え、同じ湯船へ浸かる。首の後ろに手を添え、ぷかぷかと水面に浮かせる。トロンとした顔をしながらも硬く握られた小さな指を、一つ一つこじ開けて洗った。灰色の毛くずがぽろぽろと落ちる。毎日、その汗ばんだ手でタオルケットを手繰り寄せ、細かい繊維を溜め込んでいるのを知っている。寒くないようにと、38度のシャワーは絶えず流れていた。
0.3
泣く声で目が覚める。痛い、全部痛い。寝不足で頭にモヤがかかっていて、入れる粉の量を間違えた。2度やり直した。虚な目をしながら、適温担っているかを確かめる。わからない。けど多分、これくらいの温度のはず。哺乳瓶の先を、口元へ、ちょん、と近づける。しんと寝静まった部屋、カチ、カチ、カチ、と時を刻む音が妙に大きく聞こえる。ぼんやりと薄明かりが差す中、哺乳瓶を添える手には、4つのえくぼが見えた。
0.4
平泳ぎのように足を掻き、じたばたとする。ぶかぶかのロンパース。産んで、初めて、赤ちゃんの服の種類がたくさんあることを知った。メリーの中でも気に入っていたりんごのモチーフを目で追う。人間が、いちばん早く認識する色は赤だと聞いた。突然、ぎゅっと握った片手を顔の前に掲げ、ムッとした顔で凝視する。そんなにずっと手を挙げて、ちゃんと血は巡っているのか、なんて心配をした。ハンドリガードというらしい。娘はその日、自分の手を認識した。
0.5
妊娠中に、ハーフバースデイという記念日を聞いた。産まれてずっと、頭の片隅にあったが、結局何も準備ができずその日を迎えた。出にくい母乳、母乳の後に飲ませるミルク、おむつ替え、泣いた娘を宥める、お風呂、寝かしつけ、全てに追われていた。ぼんやりして記憶がない。夫は趣味のカメラで娘を撮った。「半年、おめでとう、そしてありがとう」娘に声を掛け、次に、パジャマを着た私に向かって同じ言葉をくれた。こちらこそありがとう。ふたりで互いを讃える拍手した。それを見て、娘が笑いながらパチパチと手を叩いた。
0.6
暗闇にスマートフォンの明かりを灯し、寝ている娘の右手を、夫が自分の大きな手で下からそっと包む。夫が、ふう、と息を吐いた後、不安そうな顔でこちらを見る。私は視線をしっかりと合わせて、深く、こくりと頷いた。夫は娘の顔をちらりと見た。音を立てると泣きながら起きる娘。大丈夫、珍しく、ぐっすりと寝ている。意を決し、夫の手元が、少し迷いながらも音を奏でた。「ぱちり」。夫、初めての爪切り。
0.7
なんだか機嫌が良い、もしかしたら、今日こそは。にこにこしながらご機嫌を取り、おどけて見せながら、スプーンを口元へ持っていく。いざ、と思うのも束の間、バシンと払いのけられ、淡い期待は打ち砕かれた。はずみで頬に付いたおかゆを手の平でぬぐい、娘は眉を挟める。30分かけ丁寧に濾したおかゆは、同じく丁寧に机へと擦りつけられた。
0.8
ソファの手摺り、室内物干しの足、ダイニングチェア、収納の取手、重ねたおもちゃ箱、ベッドのふち、スツール、テレビ台。娘の目線の高さにあるものは全て、娘が立ち上がるための道具になった。私たち夫婦は、特に、ソファの手摺りにしがみ付いている娘の姿が好きで、よく写真に収めた。ふるふるとしながら、腰は引けて、前かがみになる。娘が力強く握るとシワができる茶色いソファを、私はきっと、忘れない。
0.9
手をパーにして、人差し指の先を、唇に、ふわ、ふわ、と触れる。目はどこか遠くを見て、心ここにあらず。じっと横から見つめていると、突然ハッとした様子で目を開く。きょろり、とあたりを見渡して、しましまた、次はとろんととした顔で、ふわ、ふわ、と触れはじめる。寝るのが下手な娘の、ちょっと変わった、眠たい時のサイン。
0.10
娘はよたよたとしながらも、ほぼこけずに歩けるようになった。季節は春。2度、3度、桜を見に公園へ行った。花びらがひらひらと舞い、娘の、未だ少ない髪の毛にふわりと落ちた。夫と、かわいいね、と笑った。「さ・く・ら、だよ」そう言って、娘の手の平に1枚の花びら置いた。しげしげと見て、親指と人差し指でつまんで、ぽい、と投げる。さくらはもう一度舞って、ブルーシートに落ちた。
0.11
歩く自由を手に入れた娘はベビーカーを嫌がった。右手はベビーカー、左手は娘の手。小さな手は、私の人差し指、中指の2本を力強く掴む。その手を覆うように繋いで歩いた。おぼつかない足取りにあわせていたら、いつもの道も、5倍の時間が掛かった。ゆっくりと、時間をかけて歩く。道端に生える雑草、お庭に植えられた鮮やかな花、道を走るバイク、車。たくさんの発見を、そのつぶらな瞳に焼き付けているようだった。
1.00
「お誕生日おめでとう!」そう言って、ケーキを娘の前に置く。ぽかん、とした顔。食べてもいいよ!と声を掛けると、娘はケーキに刺していたトッパーに手を掛けた。「あ、」と夫が声を挙げる。ハッピーバースデイのトッパーは目の前で弧を描く。そしてその手は、そのままケーキを盛大に掴み、テーブルから床へと落とした。べちょ。やってくれた!私と夫が声を上げて笑うと、娘は手についたクリームを、やはり机に擦りつけながら、つられてにこにこ笑った。