母のわすれもの
「かか、今日ね、ほいくえんのコップ、なかったよ」
3歳の娘が、保育園の帰り道につぶやいた。
どきっと心臓が跳ねる。
やってしまった。
この9月から、保育園へ持っていくものがひとつ増えた。
「プラスチックのコップ」
昨日洗ったあと、乾燥させてそのままになっている。
ちらりと娘の顔を伺うも、スンとした顔で前を向いたまま歩いている。
お昼過ぎに降った雨で、ところどころ水たまりができていた。娘は、吸い込まれるように、その水たまりを目指してうねうねと歩く。
ごめんね、リュックに入れるの忘れてた。大丈夫だった?
慌てて謝るも、娘はいつもの調子でずんずんと進む。
娘が選んだお気に入りの黄色い長靴が、ピシャ、と音を立てて水たまりに波紋を作った。
「だいじょうぶだよ、ほいくえんのコップ、借りたんだよ」
娘の後ろ姿と、水面に映ったグレーと白のボーダーTシャツを見つめる。
じっと水面を覗き込む娘の表情は伺うことができない。
「だいじょうぶ」
そう言っていたけれど、本当に「だいじょうぶ」だったんだろうか。
ずっと昔に感じた「恥ずかしい」気持ちの記憶が、じわじわと私の胸に広がっていた。
もう30年近く前、私は幼稚園に通っていた。
幼稚園に持っていくものは、母が前日に準備をしてくれて、玄関脇にそっと置かれる。スモック、体操服、ティッシュ、ハンカチ。翌日には、お昼ごはんのお弁当。
幼稚園のお昼ごはんの時間、いつものように、お弁当の包みを開ける。ギクリとした。そこに入っているはずの箸が入っていなかった。ピンク色の箸。サンリオキャラクターのマイメロディ。
キーン、と耳が鳴って、ブワっと体から汗が吹き出した。
お箸がないと、お弁当を食べれない。
お弁当を食べる前に、みんなで歌を歌う。
口から、なんとか音を絞り出す。ピアノの音が止み、先生が笑顔でみんなを見渡すのを知っていた。けど、私はお弁当に視線を注いだまま、前を向くことができなかった。
「せーの、いただきます!」
たくさんの声が響き、カチャ、カチャ、とフタを開ける音が重なる。
隣に座った男の子のお弁当をちらりと見る。ロケットの絵が描かれたフタを横に置き、お箸でおにぎりを突き刺し、大きな口を開けていた。
お弁当の時間、始まっちゃった。
目がぐるぐるとまわった。
しばらく膝に手を置き、体をぎゅっと強張らせていた。
顔は、いつからかカアッと血が上っている。
「麻ちゃん、どうしたの?」
担任の先生が、不思議そうな顔をして覗き込んでくれるまで、私は動けないでいた。そのあと、先生が用意してくれた箸でお弁当を食べた。
私が初めて味わった「恥ずかしい」の気持ち。
「ふふ、かかさん、おっちょこちょいだねぇ」
娘がパッと振り返る。くふふ、と笑う目が優しい。
あの時みたいな気持ちを、娘に感じさせてしまったんだろうか。当時と同じ、ヒヤリとした汗が、背中を伝ったように感じる。
ねえ、ほんとうに大丈夫だった?
「だいじょうぶよお、朝ないなーって思ったのよ。それで、先生に言って、きいろいコップ、もらったんだー」
先生に、自分で言えたんだ。ひゅ、と9月になって急に冷たくなった空気が喉を通る。
すごいね、ちゃんと先生を頼れたんだ。
「そうよお。せんせいにね、たすけてーって言ったんだ」
そうなんだ、かかは小さな頃、そのたすけてーがなかなかできなかったんだよ。
娘は、満足そうに、歩幅を大きくしてアスファルトを踏みしめる。
あ、と立ち止まってこちらを見た。
「かかさん、おっちょこちょいだから、娘ちゃんがわすれものないか、確認したげるね」
娘の顔を見つめた。口が、ぽかんとあいていたかもしれない。
あのとき、帰りのバスから降りた小さな私は、母を前にふくれっ面をしていた。
「おかえり」
優しく手を取り声をかける母に、フイ、と顔を背ける。
あれ、という顔をした母に、先生が事情を話しているのを見て、私はまた顔が熱くなる。笑顔で手を振る先生と、排気ガスを出しながら過ぎ去るバスを見送った。
「ごめんね、お箸、入れ忘れちゃったね」
私は何も言えず、お昼ごはんの時間を思い出して、口を尖らせていたいただけだった。
30年も前の、母の、私の、わすれもの。
その時とは違う「恥ずかしい」気持ちがふつふつと湧いてくる。
丁寧にアイロンを掛けられたスモック。ハンカチには名前が刺繍で描かれ、いつもピンとしていた。手作りのハンドバッグに入れられた真っ白な体操着。ティッシュは減っていたら予備のものが入っていた。翌朝には、色鮮やかなお弁当がチェック柄の幼稚園バッグに入る。
私と娘の今朝の慌ただしい時間を思い出す。
バタバタと娘のリュックに詰め込まれる着替え。保育園に持っていくTシャツも短パンも、肌着も、アイロンなんて掛けたことがない。適当に折った汚れものを入れるビニール袋。コップ、コップ、と頭で考えながら、ちらりと目に入った布パンツを、あ、忘れてた、と思いながら入れた。結果、コップはキッチンの横に置かれたまま。
明らかに、時間を、手を、かけていたは私の母の方だった。
そこまでやってもらっていて、大きな顔をして、なぜ機嫌を悪くしていたのだろう。
娘のように、自分で確認することを思い浮かべることができなかったことに、乾いた笑いが出た。
もう、母は忘れてしまっているかもしれない。
けれど、30年ごしの「ごめんね」と「ありがとう」を伝えたくなって、スマートフォンを持った。
その日の夜から、一緒に持っていくものを準備している。
娘はまだ慣れなくて、何度も一緒に確認をする。
「かんぺきかな?」
ちらり、とこちらを見る。
どう?と尋ねるその表情は、「自分でなんでもやりたい期」まっただ中の娘にしては珍しい顔で、頰が緩むのをグッと堪える。
ビニール袋が入ってないかも。
「あっ、ほんとだ〜、娘ちゃん、取ってくるね!」
ガサガサと袋の入っている棚を探る。
「あったよ!」
そう言ってにこりと笑う娘は、あの時の私よりもずっとお姉さんに見える。