蒼ざめた馬に乗りそこねた男
ハゲの風上にも置けぬやつだな。
私は、テレビで生き恥をさらし続ける政治家を見ながら思った。苦々しい。仕事が忙しくなければ、成敗しに駆けつけるところなのだが。私は、ステッキ代わりに使っている日本刀をチラッと見やった。
私もハゲだが、不正はしない。税金はきちんと払い、立ち小便はせず、セクハラパワハラもせず、ゴミのポイ捨てはやったことがなく、大声も出さず暴力も振るわず、横断歩道は手を上げて渡るのだ。
かつて私は、テロリスト志望だった。
高校の時、ロープシンの「蒼ざめた馬」を読んで影響されたのだ。進路の希望欄にテロリストと書きかけたくらいだ。日本共産党にも危うく入りかけた。「蒼ざめた馬」は、テロリストの物語であるが、なにより私にとって一番の魅力は文章だ。ちょっと引用してみよう。
私は今日モスクワの町を歩く。
並木路は暗く、粉雪が降っている。
どこかで塔時計の音楽がうたっている。
私ひとりで他には誰もいない。
私の目の前に平和な生活がひらけ、人々は忘れ去られる。
そして私は心の中に聖なる言葉をもっている。
「われ、汝に暁の明星を与えん」
作者のロープシンは、革命家で名うてのテロリストだった。暗殺団をつくってソ連への潜入を計画するも、国境で逮捕。そのまま投獄され、獄中で投身自殺した。
文章だけではない。生き方まで印象深いのだ。
タイトルの「蒼ざめた馬」は、ヨハネ黙示録第六章第八節「見よ、蒼ざめたる馬あり、これに乗る者の名を死といひ、陰府(よみ)、これに随ふ」からの引用である。
この作品のラストを転載してみよう。これがまた格好がいいのである。
今日は晴れわたったものおもわしげな日だ。
ネヴァ河は陽に輝いている。
私は彼女の厳かな水面を、深く静かな水の胸を愛する。
海に悲しげな日が落ち、深紅色の夕焼けが燃える。
波が憂鬱に打ち騒いでいる。もみの木はうなだれている。
樹脂が匂う。星が燃えはじめ、秋の夜がおりるとき、
私は私の最後の言葉を発するだろう、
拳銃とともに私はと。
ああ、何という美しさだ。死と隣り合わせのテロリストの心象風景は、かくも美しいのかと心を打たれる。これは、かつてテロが、その空虚さと矛盾の中にありながらも、かろうじてロマンを有していた頃の物語だ。今の時代には、決して成立しない物語である。
「蒼ざめた馬」には、工藤正広氏と川崎浹氏の翻訳がある。私はもちろん両方持っているのだが、やはり最初に読んだ工藤氏の方に愛着がある。
ロープシンの文章が、それこそ死ぬほど好きなのに、私は今、ウンコだチンコだと、バカボンのパパのような文章を書いている。どこで人生を間違えてしまったのだろうか。
ロープシンのような危険なにおいのする男になりたかったのに、今の私は、加齢臭を放つただのハゲオヤジに過ぎない。
テレビでは、相変わらずハゲの政治家が逃げ延びるための答弁を繰り返している。私は、日本刀のツカを、ギュッと握りしめる。だが、この日本刀は、私の最後の言葉を発することはないだろう。
テロリストは、夢の彼方だ。