ああ、知らなきゃよかった

「やあ、よろしく」と男は右手を差し出してきた。

 何だこいつは、と私は思った。日本人のくせに握手だと? 日本人なら「どうもどうも」と言いながら、ペコペコお辞儀をするのが由緒正しき作法だろうが。

 だが、仕方がない。差し出された手を無視するほど、私は不作法な男ではない。嫌々手を軽く握ると、相手はギュッと握りしめてきた。何をしやがる、と出かけた言葉をゴクリと飲み込む。

 男の手は、冷たかった。そして、汗ばんでいた。私は、男の汗を自分の手のひらにはっきりと感じた。

 背筋が震えた。以前読んだことのある汗に関する知識が、私の頭の中によみがえったのだ。

 ご存知か?

 汗の成分は、オシッコの成分とほぼ同じである。尿素の比率がちがうだけだ。つまり汗を感じたというのは、その男のオシッコをさわったのと同じなのだ。

 ああ、こんな知識なければよかったのに。知らなければ、平気で人と握手ができたはずなのである。

 私は、「ちょっと失礼」と席を外した。

 トイレに行って、ポケットの中に常備している消毒ウェットタオルで手を拭こうと思ったのだ。本人を目の前にして、握手したばかりの手を拭けるほど、私は神経が太くない。

 まず手を洗うか、と蛇口をひねって、私は異常に気がついた。トイレの中がひどくくさかったのである。イヤな予感がした。

 背後の個室で水が流れる音がして、ドアが開いた。同じ階にある法律事務所の男の姿が、鏡に映った。この階で一番くさいウンコをする男だ。

「やあ、どうも」と挨拶をしてきたので、私は、鼻声で挨拶を返した。

「おや、風邪ですか」と男が言い、私は「ええ」と答えた。

 まさか、「私が鼻声なのは、お前のウンコのニオイをかぎたくなくて鼻から息を吸うのを止めているせいだ」とは言えないのである。本当は、完全に息を止めたいところなのだが、それでは返事ができないので仕方がない。

 また、とある知識がよみがえった。

 ご存知か?

 ニオイを感じるというのは、ニオイの分子が鼻の奥にある受容体に触れるということである。つまり、ウンコのニオイを感じるというのは、ウンコの一部が体に入ってきたと言うことなのである。そして、私は、先ほど挨拶をした時に、確かに舌の上に彼のウンコの分子を感じたのだ。

 嘔吐感が突き上げてくる。

 ああ、こんなこと知らなきゃよかった。

 人間は、無知なままの方が幸せだったのだ。なぜ、イヴは知恵の実を食べたのか。なぜ、アダムまで食べてしまったのか。子孫がどれだけ苦しむか、お前たちはわかっていたのか。私は、イヴをだました蛇を憎む。熱力学第二法則を憎む。

 私の頭は混乱していた。だが、私の体は、機械的に動き続けていた。消毒ウェットタオルで、手のひらを、鼻の穴を、舌の上を、不潔と思われるすべての場所を、いつまでも拭き続けたのだった。


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