三人の婆さん

 今日も大阪の街は雑然としていた。人が多く、緑が少なかった。そして、大阪支社の山岡という男は、さっきからしゃべり続けていた。

「そろそろ昼でんな。けつねうろん行きまひょか」

 おそらく「きつねうどんを食べに行こう」と言っているのだ。きつねうどんでは普通なので、けつねうろんと言ってウケを狙っているのだろう。面白くもなんともない。大阪人の笑いは、私には苦いだけだ。

「けつねうろん、ですか。いいですね」と私は頷く。関西のうどんは嫌いではない。たこ焼きなどと言う、お菓子だか主食だかわからないようなふざけた食べ物よりはマシである。

「ここ、入りまひょ。うまいでっせ」

 彼に言われるままに、一軒のうどん屋に入った。

 外から見ると古びた印象だったが、中は比較的キレイである。私は、少しホッとした。前の出張時に連れて行かれた店は、外も内もとてつもなく汚い店で、潔癖症の私は、注文した定食を半分も食べられなかった。

「ありゃ、いっぱいやな」と山岡が言う。

 彼がうまいと言ったのは事実なのだろう。まだ、正午前だったが、店の中は客でいっぱいだった。テーブル席も全部埋まっている。

「すんません。別々でよろしいですか。お一人はカウンターで。お一人は相席でお願いします」

 店員に声をかけられ、山岡はカウンターに向かった。「そしたら、あんさんはあっちやな」と彼が奥のテーブルを指差す。見ると、4人掛けのテーブルに、婆さんが三人座っていた。

 しまった。

 私は、何が苦手と言って相席ほど苦手なものはない。

 そもそも人前でものを食べるのが苦手なのだ。人の咀嚼音が気になる。自分の咀嚼音も気になる。口元からご飯がこぼれ落ちないかが気になる。ご飯つぶがほっぺたに付いていないかが気になる。あ~っ、よだれが垂れそうだ。クシャミが出て、咀嚼したものを回りに噴き出しそうだ。大変だっ。

 こんな調子だから、相席になると地獄である。

 幸いなのは、相手が婆さんであることだ。これが女子高生なら、私は、断固として着席を拒否しただろう。自意識過剰の私は、同様に自意識過剰の女子高生たちと化学反応を起こし、必ずや突発的惨事が起こるのである。

「お兄ちゃん。座り座り」と婆さんたちが言った。「ほら、ハナちゃん、その椅子のバッグこっちに渡し。窓際に置いとくさかい」

 婆さんたちは、「どうも」と会釈する私に笑顔を向けたが、そのあとは三人でしゃべりはじめた。何か話しかけられるかと身構えていた私としては、ありがたい状況である。

「三色うどん、どない。どない。どない」と、運ばれてきたうどんを前に、一人の婆さんがせわしなく聞く。

「まだ、食べてへんがな」

「はよ食べえなあ。そやけど、これ三色か? 二色に見えるで」

「あんた、白内障やろ。はよ、しゅじゅちゅせんとアカンで」

「わははは。しゅじゅちゅ、やて。しゅじゅちゅ、てちゃんと言えてへん」

「あんたかて、言えてへんやんか」

 この時点で、私は、少し不安を感じだしていた。一瞬、大阪人のギャグに乗せられそうになった自分に気がついたのだ。これなら女子高生の方がマシだったかもしれない。

 とにかく婆さんたちの会話を聞いてはだめだ。

 私は、思索モードに入った。手始めに、ゲーデルの推論を思い出そうとする。えーと、まず定義1だ。定義1.すべての真の数学的命題の体系を「客観的数学」と呼ぶ。よしよし。次は定義2だな。定義2.すべての証明可能な……

「どう、三色うどんおいしい?」と私の思索は、三色うどんに吹き飛ばされた。

「おいしい、おいしい」

「こないだ、あんたにあげたひよこ饅頭と、どっちがおいしい?」

「そりゃ、こっちや」

「ひどいわあ。もう、あんたにはひよこ饅頭やらへんでえ」

「しゃあないやんか。そもそも三色うどんとひよこ饅頭、比べる方がおかしいねん」

「そしたら、三色うどんと、ずっと前にあんたにあげた赤福餅と、どっちがおいしい?」

 その時、私が注文したきつねうどん定食がやってきた。きつねうどんにかやくご飯と卵焼きが付いている。これで680円だから、結構、安い。よし、これからは食べることに集中しよう。そうだ、私は孤独のグルメだ。目玉を約3割増しでぎょろつかせて、私は松重豊になりきった。

 まずは、卵焼きから……。

 うん。うまいっ。実に卵焼きらしい卵焼きだ。この味は、そうだ……

「そや、こないだ梅田のマクドナルド行ってん」と婆さんの一人が言った。私の孤独のグルメを模したモノローグは、マクドナルドに吹き飛ばされた。

「マクド、おいしいんかいな」

「おいしいねん、それが。期間限定の、え~っと、何やったかな。モコモコ、ちがうな。コロコロ……ん~っと、何やったかな、思い出されへんわ。モコモコみたいな名前やったんやけど」

「ヨロヨロとかか?」

「そりゃ、変や。ヨロヨロバーガーなんてあるかいな。食べたら死んでまうわ。食べたら元気にならんと」

「あっ、ムキムキちがうん?」

「ムキムキバーガーって、ちょっとやらしいで」

「うん、やらしいやらしい」

 私は、おそらくロコモコバーガーだろうと推測した。だが、ここで会話を割って伝えるほどの情報とは思えない。「ロコモコバーガーをムキムキバーガーとは、マクドナルドも踏んだり蹴ったりだな」と考えるだけにしておいた。

「あ、そういうたら、姫路行った時も、ムキムキ食べたんや」

「え、ホンマに。あんた、どこ行ってもマクドに入るんやな」

「好きやねん」

「で、姫路のムキムキバーガー、おいしかったんかいな?」

「おいしかったで。姫路もなかなかやる」

 そりゃあ、マクドナルドなんだから、梅田でも姫路でも、さほど味は変わらないだろう。などと心の中で突っ込みながら聞いていると、話がコロッと変わった。

「この前、大丸の美術展行ったんやわ」

 食い物の話から、美術展の話に急展開だ。

 ちょっとは高尚な話になりそうだなと思ったら、それに返した婆さんの言葉は、私の予想をはるかに超えていた。

「それ、おいしかったんかいな?」

 頭の中が真っ白になった。

 大丸の美術展がおいしいわけないやろっ。心の中で突っ込みながら、私は思わず咳き込んでしまった。口の中のうどんが逆流して鼻から出た。

「いやあ、この兄ちゃん器用やわ。鼻からうどん食べてはる」

 はやし立てる婆さんたちの声を聞きながら、だから大阪は嫌いなんだと私は思った。涙でにじむ視界に、カウンターに座った山岡が、私を振り返ってニッと笑ったのが見えた。

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